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第三章 「純粋武術」の発見(4)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (4) 攻撃と護身という矛盾したものをひとつのシステムとして取り込むことは可能であるのか。新陰流ではそれを武術の発展としてとらえようとした。つまり殺人剣から活人剣(活人刀)への展開である。これは武術から武道への歩みが武術のあるべき姿であるとする考え方にも見ることができる。上泉伊勢守が柳生石舟斎への課題とした「無刀」の位は護身の極みである相手と接触をしない境地をいうもので、争いの起こる前にそれを制してしまうことを理想とするのであるが、そうした矛盾をどのようにひとつのシステムとして展開するのか、その解決が石舟斎に託されたわけである。

第三章 「純粋武術」の発見(3)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (3) 一部には競技試合における違和感の解消法として打撃だけではなく、投技や逆技を加える向きもあるが、問題はそうしたところにあるのではない。あるいは競技武術の違和感は武術の攻撃の極限である殺人にまで至らないで止めるところにある(実戦にはルールはない)と考える向きもある。しかし、それも違和感の本質ではあるまい。もし武術が相手を攻撃して制圧するだけのものであるなら、競技試合の「価値」は完全な評価とはいえなくても、本質的な欠陥を有するものとは見なされないはずである。しかし競技試合に拭いがたい「違和感」を覚えるのは競技試合には武術の根本システムである攻撃と護身の護身の部分が欠けているまさに根本的な問題があるために他ならない。

第三章 「純粋武術」の発見(2)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (2) およそ武術には二つの矛盾した側面がある。攻撃と護身である。攻撃は相手を制圧する方法であり、相手と「接触」しなければならない。一方、護身の最大のの目的は攻防が生じないことであるから、これは相手から「離脱」することが第一となる。つまり武術とは、相手と接触する攻撃法と、相手から離脱しようとする護身法といった二つの相反する方向にあるものを同時に内包しているシステムということになる。つまり「武術」というシステムには矛盾が存しているわけである。競技試合が武術の価値を判断する方途として必ずしも全面的に肯定されることがないのは、それが攻撃の面のみを比べるものであるからに他ならない。つまり本来の武術に有されているもうひとつの半面である護身が競技試合では何ら顧みられることがないために競技試合の結果をしてそのまま武術の実力とは見なしがたいと考えられるわけである。

第三章 「純粋武術」の発見(1)

  第三章  「 純粋武術 」の発見 (1) 「純粋武術」こうした言葉が使われたことはないが、これは「最も合理的な動きは人の本来の動きに由来するものであろう」という考え方を前提としたものである。一方で通常の武術は人が攻防の中で得た「英知」を多くかつ深く習得することが最も合理的な攻防の動きを得ることであると考える。そしてそれは秘伝、奥義の技をもって極まることになる。秘伝、奥義の技は攻防において最も合理的な動きであるので、これは最も有効な技ということになる。しかし、こうした秘伝、奥義の技を習得していることで攻防において、必ずしも絶対的な優位に立てるわけでもないことは経験則として広く知られている。いうならば秘伝、奥義の技における優位性とは知識の優位性に他ならない。通常の爆弾と原子爆弾では原子爆弾が圧倒的に有利であるが、こうした知識の優位性は人体という限られたアイテムをも用いるだけの武術では限定されたものでしかない。もしロボットでの対戦であれば、これは知識の優位性は明確なのもとなろう。手足を鍛えたり、いろいろな運動能力を高めたりという発想はこうしたロボット的な傾向の下にあったとすることができるのであろう。

外伝6『截拳道への道』と”TAO of JEET KUNE DO”(6)

  外伝6『截拳道への道』と ” TAO of JEET KUNE DO ” (6) つまり「截拳道」とはそこに至る頂点ではなく、無為自然へと進むプロセス(道=タオ)なのである。そうであるから截拳道を継承する人はブルース・リーの教えた技術を批判的に継承することなく受け継ぐことはできないことになる。ブルース・リーが截拳「拳」としないで、截拳「道」としたのは「~拳」のようなシステムとしての技術を截拳道は有しており、それを学ぶのではないことをいうためと考えらえるのである。

外伝6『截拳道への道』と”TAO of JEET KUNE DO”(5)

  外伝6『截拳道への道』と ” TAO of JEET KUNE DO ” (5) 孔子は伝統文化を重視し、その中で優れたものを学ぶ必要を説いていた。孔子は古代の文化のすべてが学ぶべき価値があるとしていたのではなく、例えば周の文化を特に優れたものとしていた。つまりブルース・リーがクリシュナムルティと孔子を共に上げているのは、伝統的な技術への批判と優れた伝統の継承の重要性を示すためと思われるのである。そうであるから詠春拳や蟷螂拳の「点穴」などの教えもメモとして残している。ある意味で非科学的と思われるようなこうしたことも自分に興味あればそれを残して検討していたものと思われる。

外伝6『截拳道への道』と”TAO of JEET KUNE DO”(4)

  外伝6『截拳道への道』と ” TAO of JEET KUNE DO ” (4) そうは言ってもクリシュナムルティのようにすべての伝統的な修行法を否定してしまうと武術の修行はまったく成り立たなくなってしまう。蹴りにしても、突きにしても合理的な方法というものがあるのは確かであるし、人の心身は完全に「自由」に動けるわけではない。腕でも足でも可動域は限られている。そこでブルース・リーが「孔子」をあげている必然性が見えてくる。