道徳武芸研究 なぜ孫派八卦掌には単換掌、双換掌がないのか〜システムとしての走圏〜

 道徳武芸研究 なぜ孫派八卦掌には単換掌、双換掌がないのか〜システムとしての走圏〜

八卦拳の拳訣で「百練は一走に如かず」は、よく知られていることであろう。これは円周上を歩く「走圏」が八卦拳(八卦掌)の練習において第一に重要であることを教えるものである。ただ、このことが八卦拳において単換掌式として明確に位置付けられているのを知る人は殆ど居ないのではなかろうか。

八卦拳において単換掌や双換掌、上下換掌などの「掌」は「掌式」を表現した動きなのである。掌式によれば現在の八卦掌の単換掌や双換掌、上下換掌を始め全ての動きは双換掌式に属することになる。つまり双換掌などは双換掌式になるのであるが、単換掌は単換掌式ではないのである。こうしたことを解消するために孫派では他派で単換掌、双換掌とされている動きを両儀、四象としているのではないかと思われるわけである。おそらく孫禄堂は何らかの掌式に関する情報を得ていたのであろう。そのために、このような特異な体系を構築したものと思われるわけである。

単換掌式は、ただ前に出している左右の腕を入れ替えることで左転、右転を転ずるだけのものである。一般的な単換掌はただ左右の腕を入れ替えるだけではない。いくつかの動作を加えている。そうなるとこれは双換掌式となってしまう。こうしたことに関して孫禄堂がある程度の情報を得ていたと思われるのは『八卦拳学』の第五章に「八卦拳、左右旋転と左右穿掌の区別」とする一章のあることでも分かる。つまり穿掌とは腕を出す動作のことなのであるが、ここでは左旋転、右旋転と左右の穿掌とが密接な関係にあることが説かれている。ただ孫禄堂は右旋転、左旋転があり、そこには右穿掌、左穿掌があるように述べているだけで、穿掌が単なる走圏時の構えなのか、左右を入れ替える動きなのかは明確ではないように思われる。しかし穿掌とあるのは腕を伸ばす「穿」ということを強調しているのであるから、単に構えではなく腕を伸ばすことで左右の旋転(走圏)を入れ替えるものと理解するべきであろう。ただ単換掌式であるべき両儀も孫派では「青龍縮尾」「青龍返首」を経て左右を入れ替えているので、これは双換掌式になっている。おそらく孫は実際の単換掌式の動きは知らなかったのであろう。しかし孫の学んだ程派の単換掌は単換掌式ではないことだけは分かったので、これを単換掌式を連想させる単換掌ではなく両儀と改めたのであろう。

左右のみの変換である単換掌式に上下の動きが加わると双換掌式となる。孫派の両儀の動きは双換掌式であることは既に触れたが、単換掌式は左右つまり陰陽のみ入れ替えだけなので、これは易からすれば両儀ということになる。つまり孫派で両儀とあるのは単換掌式の理としては全く正しいのである。こうしたことからも孫が単換掌式の理論だけを得ていたことが分かろう。双換掌式は左右に上下が加わるが、これは陰陽に、陰から陽、陽から陰への変化が加わるので四象となる。これは双換掌式である。惜しむらくは孫派に単換掌式を正しく表現する動きが得られていなかったことである。

どうして八卦拳では単換掌式と双換掌式を区別するのか。それは冒頭でも触れたように八卦拳において走圏を最重要と位置付けているからである。董海川は数年にわたって九華山で走圏だけを練っていて、功が成って山を降りる頃になり始めていろいろな形を学んだとされている。つまり「百練は一走に如かず」は単換掌式のことを言っているのである。孫禄堂は『八卦拳学』の第八章の「両儀学」で両儀とは左右の旋転であることを明言しており、その回転身式について「即ち単換掌」と注を付している。そして、それは「一気の往来、屈伸」であるとされ「一気走り去るは流行、息(や)まざるをはかるが如し」とある。つまり途切れることなく走圏を練るということである。これにより入身の功がついて来る。八卦拳の攻防において最も重視されるのは入身である。つまり単換掌式の極意とは走圏が入身の稽古であるということにあるわけで、双換掌式は入身で相手の死角に入った後の技の数々が示されているわけである。こうした八卦拳の攻防のシステムとそれを成立させるための練習法のあることを掌式は教えているのである。


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