道徳武芸研究 金陵八卦掌故事(2)八卦掌と投げ技と〜摔角名手・馬杏田〜

 道徳武芸研究 金陵八卦掌故事(2)八卦掌と投げ技と〜摔角名手・馬杏田〜

文革(1966年から)前の南京では摔角が盛んに練習されていたという。そこには馬杏田という名人が居た。馬は回(イスラム)族で、山東省済南の出身、かつての大会では全国三位になったこともあった。南京では牛肉店を営む傍ら、摔角を教えており、多くの弟子が居た。また江蘇体育学院の教師でもあった。

しかし文革が始まると若い弟子達の殆どは文革運動に参加し、また馬自身も批判を受けたりしたことあって、習いに来る弟子はほとんど居なくなってしまった。文革の時には武術家も古い思想に汚染されているとして批判を受けていたので馬もその被害にあったようである。そして晩年は弟子を取ることもなかったらしい。

馬の生まれた山東省は中国でも特に摔角が盛んな保定(河北省)の隣である。また回族には独特の武術が発達しているから、あるいは馬の伝えた摔角は一般のものとは異なる技術であったかもしれない。他の地域はどうか分からないが、もし近代中国で摔角が盛んであったならば、八卦掌が投げ技へと展開するのも、こうした背景があった可能性も考えられる。ただ摔角そのものは現在でも中国で広く行われている。よく「中国相撲」とも称されるが技は柔道に近い。ただ、その間合いは柔道よりも遠く、引き手を多用することは余りない。それは摔角が相手を振り回すような遠心力を使う感じになるからで、この間合いは柔道では古式の形にむしろ近いと言えよう。

それはともかくとして八卦掌と投げ技の親近性は入身と転身にある。入身と転身は合気道でも、これを「入身転換」として重視している。入身そのものは他の拳術にもあるが、転身を八卦掌ほど多用することはない。八卦掌では転身の腿法で相手の足を払ったりすることもするわけで、これが投げ技に繋がって行くことになる。こうした技術的な観点からして興味深い体験を袁は挙げている。

それは高校時代のことであった。放課後、摔角クラブの練習を見ていた袁は、中でも一番強いとされるクラスメイトから「やってみないか」と誘われて、相手をすることになった。袁は馬のところに出入りもしていたので摔角についてある程度は知っていたが本格的に稽古をしたことはなかった。組んだところ何度も投げられそうになったが、八卦掌を練っていたので安定した足腰ができていた為、投げられてしまうことはなかった。もみ合っている内に思わず掃腿を出してしまうと相手を投げることができた。見ていた多くのクラスメイトは驚きの声をあげた。これは袁が八卦掌の暗腿を用いたということである。つまり八卦掌の投げ技は摔角に由来するものというようりは暗腿によるものであったことが、こうしたエピソードで知ることができるのである。

八卦掌の暗腿の力は内夾勁によるものであり、これは扣歩と擺歩で養われる。内夾勁とは内へ向けて力を蓄えることで、扣歩の時が蓄勁、擺歩で発勁となる。この時に力を蓄えるには「膝」が適切に用いられなければならない。八卦掌の歩法の秘訣である「平起平落」は歩く時に足裏が地面と常に平行であることをいうのであるが、それを行うには推進力を膝の前へのスライドで得ていなければならない。一般的に歩く時には後足で地面を蹴ることによって推進力を得る。しかし八卦掌では前足の膝を前にスライドさせることで推進力を得るのである。そうなると後足で蹴ることがないので自ずから足裏は地面と平行になるわけである。

扣擺歩を使って入身で相手の死角に入り、転身をする。その時に足を使って相手のバランスを崩すと投げ技を行うことができるわけである。つまり八卦掌における投げ技はあくまで暗腿の変化であり、摔角のような投げ技とは本質的にアプローチが異なっているのである。例えば柔道の体落としであれば、柔道では足で相手の動きを止めて上半身を引っ張ることで投げるのであるが、八卦掌では上半身の動きを止めて足を後ろに払うことで相手を倒す。これはある意味では山嵐に近いともいえる。

結果的に投げるような形になっても武術の原理からすれば足を払って倒しているのである。現在は、こうした原理が忘れられて、ただ投げているだけの演武も見られるが、それは八卦掌からすれば似て非なるものと言わねばなるまい。

                                (参照 袁子府『金陵八卦掌』)


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