丹道逍遥 文始真経(三極篇四〜十)仙道とチベット密教

 丹道逍遥 文始真経(三極篇四〜十)仙道とチベット密教

仙道の瞑想法として最も知られているのは小周天であろう。これが有名になったのは、許進忠の『築基参証』による。勿論それ以外にも小周天は仙道関係の本に記されてはいたが、同書は一般にも分かりやすく書かれていたので広く読まれたようである。また仙道の瞑想法としては、ユングの心理学を通して「陽神」などが特色あるものとして知られてもいる。陽神は瞑想に熟達して純粋な陽気が開かれるようになると、それを「嬰児」のようなものとして育てる、とするもので、これは西洋の錬金術のホムンクルスともイメージ的に重なるものがある。ユングはこうした交流のないところで共通するイメージが見出されることを重視していたが、陽神が記されているのは『太乙金華宗旨』で、これが『黄金の華の秘密』として紹介されたわけである。

陽神を得る瞑想の前提となるのが小周天である。小周天などにより純粋なる陽気を得なければ陽神を作ることはできないとされるのであるが、これらは何ら実態のあるものではなく、全てがイメージによって作られている。そうであるから最終的には陽神も虚空と一体となって消えてしまう。こうした瞑想法は仙道では中乗(’中級レベル)とされている。無為自然を前提とする仙道にあっては、あまりに意図的であるからである。そうであるなら仙道からすれば異質ともいうべきこうしたイメージを使う瞑想法が何処から来たのか、ということになる。それはチベット密教からなのである。清朝は満州族の建てた王朝であり、そうした中国の北方ではチベット系の密教が盛んであった。それが中国にも流入して来て、さまざまな影響を及ぼしていたわけである。

密教ではイメージを多用する。つまり仏をイメージすることで仏と一体となれる、と考えるのであるが、こうした方法は仏教にはなくバラモン教に由来する技法であった。小周天や陽神のことを詳細に説明している『性命法訣明指』には体の中に「オム・マニ・ペメ・フム」をイメージする方法が記されている。これを見てもチベット密教からの影響は明らかといえるのである。

以下にあるように、この世には「本質には色もないし、形もない」(四)のであるが、色や形があると思えるのは「全ては人の意識によっている」(五)のである。小周天をすれば体の中の脈(ルート)を陽気が通るような感覚を確かに得ることができるが、実際にそうした脈があるわけではない。陽神もそうした嬰児のようなものが居るわけではない。こうした瞑想法を使うのは一旦、そうしたものをイメージして、消すことで、見えるものにとらわれないことを悟らせようとしているわけである。文始派では、そういった余計なことをあえてする必要はない、と考えるのであるが、あえて「無為自然」と反対のことをすることで、気づきを得る切っ掛けとして有効である場合もあるかもしれない。


(四)

関尹子が曰われた。

天地には色があるし、形もあるように見えるであろう。

しかし、(「道」を知る)自分はその本質には色もないし、形もないことを知っている。

つまり天にも地にもそうしたものはなく、

無いからこそ天は天であり、地は地であるのである。


(五)

関尹子が曰われた。

死んで生まれて来る人がいる(死産)。

人であっても、物であっても、

偉大なる天地でも、

それが、なぜ生まれてくるのかは分からない。

天地は人に認識されて「生まれて」来るのであり、全ては人の意識によっている。

天地を認識するから天地のあるのを知ることができるわけである。

これは例えば「刃に触れなければ手は切れない」というような合理的な因果関係であると言えよう。


(六)

関尹子が曰われた。

夢の中、鏡の中、水の中、

これらには全て天地の姿が写っている。

夢で天地の姿を見ないようにするには、寝なければ良い。

鏡に天地の姿が写らないようにするには、鏡を覆えば良い。

水に天地の姿が写らないようにするには、水を干せば良い。

天地が写るか、写らないかは、天地に係るのではなく、夢や鏡、水に原因を求めるべきである。

そうであるから聖人は、俗世にあっても、外的なものにとらわれることのい心を持っているので、

俗世に汚されることはないのである。


(七)

関尹子が曰われた。

天は天と認識されなければ天ではない。

地も同様に、それがあるからといって地であるのではない。

地を地、天を天として認識するのは、

例えば家を家と認識し、舟や車を舟や車と認識して始めてそうとなるのと同じである。

あらゆるものは人が認識をして、そのようであると理解されるわけであり、

ものがそれ自体で、(家や舟、車のように)意味を持っているのではない。

もし人が何ら意識をすることがなければ、それは何の意味をも持ち得ない。

もし上は天を見ることなく、下は地を見ることなく、内には我を見ることなく、外には人を見ることがないならば、あらゆるものから解放されることであろう。


(八)

関尹子が曰われた。

時が巡るのは気(エネルギー)があるからである。

もし気がなければ昼も夜もないであろう。

方角があるのは周囲に物があるからである。

もし物がなければ方角を定めることはできないであろう。

「気が無い」とは、どういうことか。

気が生まれるのは、団扇をあおいで風が起こるのと同じである。

団扇が動かない時には風は生じていない。つまり気が生まれていないわけである。

団扇が動いて風が生じた時には気も生まれている。

ものはどうして生まれるのか。

それは木を擦って火を生じさせるのと同じである。

木を擦らない内は火つまりものは生まれない。

木を擦った時に生まれたものが火となるのである。


(九)

関尹子が曰われた。

世に寒い、暑い、温かい、涼しいが生まれるのは、

瓦や石でそうした温度の変化が起こるのと同じである。

瓦や石を火の上に置けば熱くなる。

瓦や石を水に入れれば冷たくなる。

息をゆっくり掛けると温めることができる。

息を強く吹けば冷たくすることができる。

温度の変化はその物自体によるのではなく、

外的な要因によって起こっている。

例えば水に映る影が行ったり、来たりするのは、

水そのものが動いてそうなるのではなく、

映る物が動いてそうなっている。

それと同じである。


(十)

関尹子が曰われた。

衣服が揺れるのは、空気が動いて風を生じるからである。

息を吹きかけると表面が湿って来る。

水を水に注げば音が出る。

石で石を撃てば火花が散る。

風雨、雷電が起こるのも、これと同じである。

つまり、あらゆるものは関係性の中で生じているのである。

そうであるから気も心によって生まれている。

心で火をイメージすれば、気は暖かくなる(暖かく感じられる)。

心で水をイメージすれば、気は涼しくなる(涼しく感じられる)。

これが分かれば天地の徳が徳だけであるのではなく、

人が居ることで実現されるものであることが分かるであろう。


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