丹道逍遥 文始真経(二柱篇 六〜十)「幻視」の視点〜長沢蘆雪「朧月図」〜
丹道逍遥 文始真経(二柱篇 六〜十)「幻視」の視点〜長沢蘆雪「朧月図」〜
ここで「幻視」とは「虚」の世界を視ていることを意味する。仙道では、この世は「実」と「虚」で出来ていると考える。この「虚」の感覚に覚醒することが「練己」で、仙道は「練己」に始まって「練己」に終わる。つまり「虚」への気づきがあれば「練精化気」が始まるのであり、そして完全に「虚」の世界への覚醒が果たされると「還虚合道」の境地に達する。こうしたシステムは何を表しているかというと、つまりは途中の「修行」のプロセスは必然ではない、ということである。こうしたことを前面に押し出しているのが文始派である。勿論、その他の派も多かれ少なかれ「修行」は必然ではないことは述べている。しかし、完全に「修行」を否定してしまうと、そもそも「仙道」が存在することの意義がなくなってしまう、と誤解されかねない。つまり文始派は文始派がひとつの派として存在することを必ずしも求めてはいないのである。本来は「修行」などしなくても「真の自己」への覚醒があれば、あるべき生き方ができると教えているのが仙道なのである。
つまり既に人は「虚」を認識し得ているのであるが、殆どはそれを忘れて「実」の世界にしがみつこうとしている。また、いろいろな「修行」をしても「虚」を知ることができていない人が居るのは「実」である「修行」を手放すことができないからに他ならない。今回、紹介する長沢蘆雪の「朧月図」は「虚」の世界が実によく表されている。それがおもしろいのは「月」そのものを描くのではなく、背景を薄暗く丸く描くことで、何も描いていない紙の白が「月」に見えている点である。これはつまり「虚」をして「実=月」を表現していることになる。
これはフェイクニュースや陰謀論などでも同様で、実際は「(フェイク)ニュース」や「陰謀」そのものは「嘘」なのであるが「周囲」を意図的に選択された「(嘘を含む)情報」で固めることで、ひとつの「像」が見えてくるように仕掛けているわけである。本来は「実」である情報を組み合わせることで「虚」の「真実」が導き出されるのであるが「実」の中に嘘が入っていたり「不都合な真実」が隠されていたりすると、結果として導き出される「虚」の世界は「実」との兼ね合いで、深い真実を知ることのできる真の「虚」ではなく単なる「嘘」の虚像になってしまう。
オカルト界わいでは、社会現象の他にも神話や古代史に多くそうした形を見ることができるが、本当の神話や古代史を知れば「フェイク」の神話や古代史よりも何倍ものインパクトを持っていることが分かるであろう。これは「フェイク」の神話や古代史の「解釈」に関心を持つ人よりも遥かに真実の神話や古代史に興味を持つ人が多いことでも分かる。それは一時期「フェイク」がおもしろく感じても直ぐにそれらの底の浅さに興味を無くしてしまうからである。
月は本来、太陽の光を受けて輝いているわけで、そうであるなら月は虚の存在ということにもなる。蘆雪の「朧月図」はそうした虚的存在としての月をよく表現し得ている。この「実」の世界でどのように「虚」的世界が存しているのか、を実によく表現している。それは神秘学の徒が「幻視」する世界そのままということもできるのである。
(長沢蘆雪の「朧月図は現在、府中市美術館で開催されている「春の江戸絵画まつり 長沢蘆雪」で展示されている。4月12日までの前期展示のみ)
(六)
関尹子が曰われた。
夢の中、鏡の中、水の中、
これらにが全て天地のままを写しているとすれば、
もし夢を見ないならば、夢で天地を見ることはできない。
鏡を使わないとすれば、そこに天地を写すことはできない。
水が無いならば、そこに天地を見ることはできない。
そうであるから聖人は、あって天地をあえて知ろうとすることはなく、
そのあるがままを見ているに過ぎない。
(七)
関尹子が曰われた。
天は天だけがあって天たるのではない。
天は地があるから天たり得るのである。
地が地であるのは(天があるからであるが)、
それは建物や舟、車が建物や舟、車であるのと同じである。
これらは人が居てそのように使うことで建物であったり、舟あるいは車たり得ているのである。
存在が意味を持つのは対象があるからであるが、ただ存在しているだけであれば何らの対象も必要とはしない。
「上に天がある」のは「下に地」があるからである。
「上」と「下」、「天」と「地」は互いに互いを意味付けているが、
「上」と「天」または「下」と「地」には何らの関係もない。
「内に彼が居る」のは「外に我が居る」からである。
「内」と「外」、「彼」と「我」は互いが互いを意味9付けているが、
「内」と「彼」または「外」と「我」には何らの関係もない。
(八)
関尹子が曰われた。
そこに「気(エネルギー)」がなければ昼夜も存し得ない。
それが四角になれば四角な形となり得る。
それが周囲を認識しなければ南も北も存し得ない。
「気がない」とはどういうことか。
「気が生ずる」のは、団扇から風が生ずるのと同じである。
団扇が揺れることがなければ風も生まれない。
団扇を揺らしているのが「気」なのである。
「形がない」とは、どういうことであろうか。
形が自ずから生まれるのは、木を摩擦して火が生まれるのと同じである。
木を擦らなければ火が生ずることもない。
つまり「気」が「形」を持つこともない。
木を擦る時に「気」は火という「名」を持つ物の「形」となるのである。
(九)
関尹子が曰われた。
暑い、寒いの変化、暖かい、涼しいの変化は、
瓦や石にも見られるように、それを火に掛ければ暑くなるし、水を掛ければ冷たくなる。
また息をゆっくり掛けると暖かくなり、早く掛けると冷たくなる。
つまり暑い、寒い、、暖かい、冷たいは、外的なものによって変化をしているのである。
そうであるから瓦や石それ自体に暖かい、冷たいの原因があるわけではない。
それは水に映る「影」と同じである。
水そのものに「影」があるわけではない。
どのような「影」が写っても、
その「影」は水そのものの中にあるのではない。
(十)
関尹子が曰われた。
衣服が揺れるのは風を受けるからである。
「気」が影響すれば、物でも、水でも何らかの作用を受ける。
水に水が注がれれば、水は「音」を発する。
石に石を当てれば、石は「火花」を発する。
こうした原理を知っていれば、
風雨や雷電はすべて何らかの影響するものがあって起こっていることが分かる。
つまりこれらは全て「気」によって起こっているのである。
また「気」は心にも影響を与える。
例え大火がなくても、大火をイメージすれば、暑さを感じるものである。
また火を消す水をイメージするならば、寒さを感じるものである。
つまり、こうしたことは天地のあらゆるところに働いているのである。