道徳武芸研究 截拳道とクリシュナムルティと〜形式からへ自由へ〜

 道徳武芸研究 截拳道とクリシュナムルティと〜形式からへ自由へ〜

時に「太極拳は実戦に使えるのか」であるとか「現代空手の突きは有効か」などと疑問を持つ人も居るが、不思議でならない。そうであるなら適当に改良を加えれば良いだけのことである。それが出来ないのは、その人が何らかのとらわれなくても良いものにとらわれているからではないか、と思われる。そうした思い込みからの脱出の方法としてブルース・リーは截拳道という優れた体系を考えていた。ただ現在において、その思想的な枠組みは充分には機能していないが。

ブルース・リーの提唱した截拳道で特に見るべきは「概念(コンセプト)」ということが意識された点であろう。現在、截拳道には、コンセプト派とオリジナル派があるとされている。コンセプト派は截拳道のコンセプトを基にブルース・リーの教えていた技にとらわれない独自の技術体系を立てることを良しとする。一方のオリジナル派は比較的ブルース・リーの教えていた技に近いものを中心としている。本来、截拳道は、決められた技を習うのではなく、自由に技を選ぶことができる体系である。その意味では本来の截拳道に近いのはコンセプト派であるということができよう。

そうであるから截拳道を限定して言うなら、それは「截拳道コンセプト」であり何ら実態を持たないものでなければならない。あえて言うならブルース・リーが教えていた武術技法は「振藩拳法」とするべきであろう(振藩はブルース・リーの本名である李振藩による)。ただ、こうした截拳道(概念)と振藩拳法(武技)との違いを明確にし得ないままブルース・リーは亡くなってしまった。コンセプト派とオリジナル派の差異は武技の「伝承」の違いにあるように思われているが、本質的にはそこにブルース・リーという「権威」の否定が根底になければならない。盲目的にブルース・リーの概念でも技法でもを受け継ぐのは截拳道ではなく、自分で考え、吟味をして、全く「白紙の状態」から伝承を捉え直さなければならないというのが、截拳道の教えである。つまり截拳道とは個々人が「権威」によらず独自に表明されるべきものなのである。そこで欠くことができないのは「概念」と「武技」の分離である。

ただ、こうした考え方はブルース・リー独自のものではない。中国武術には広く見られてもいる。例えば太極拳は「概念」であり、楊家太極拳は「武技」である。そうであるから呉家太極拳や武家太極拳はそれぞれ「武技」においては全く同じではないが等しく太極拳と認められているし、陳家は大きく異なっていても「太極」思想をベースとしているので太極拳と称されているわけである。他には蟷螂拳なども、現在は七星や秘門、太極などいくつもの門派があるが、衛笑堂などによると昔は、それぞれの地域で、単に「蟷螂拳」と称していただけであり、これが近現代になって地域感の交流も進み、いろいろな螳螂拳があることが知られるようになって、それぞれ七星螳螂拳や秘門螳螂拳などの呼称が生まれて行ったのである。つまり螳螂拳でも螳螂拳という「概念」と七星螳螂拳などの「武技」の分離がなんとなくではあるが意識されていたわけである。ただ、これらにあっては、いまだ「概念」と「武技」との明確な分離は見られず、それは往々にして「どの系統が正統か」など、より自由度のない方向へと進む傾向もはらんでいる。

なぜ、ブルース・リーは截拳道の「概念」化を、あえて意識したのか。そこに最も大きな影響を与えたのはクリシュナムルティであろうと思われる。クリシュナムルティは既存の価値観に捕らわれることなく、自分の思考や判断によって生きることの重要性を説いていた。ある意味、戒律などの判断基準があった方が生きやすいという側面もあるが、クリシュナムルティはそれでは本当の自由は得られないと教えている。つまり「権威」からの呪縛から自由になることこそが、真の自由たり得ること、とするわけである。どのような「権威」もその正しさを保障するものではない。その真実に目覚めたならば自分で考えて行動することが重要であると分かる。截拳道も同じ立場で「截拳道」に習熟することを目的としてはいない。過去の遺産として、あらゆる武技はあくまで参考になるものの既存の体系に縛られる必要はないのである。自分の求めるものを自由に得て行けば良いだけのことである。

ここで最も大きな弊害は組織である。組織は「権威」であり、それは段位などによって個人に「権威」の保障を与える。そうなると組織が提供している武技の範囲から自由になることはできなくなってしまう。技術は時代や環境によって大きく変化をしなければ実際へと対応することができないが、そのために「概念」を実現させるべく最適の「武技」を求めて行くには、先ずは「概念」を明確に知ること、そして自由な立場で「武技」を選んで行くことが求められる。そうであるから「太極拳は使えない」とか「合気道には蹴りに対する技がない」ということは、それそのものが意味をなさないわけである。使えないのであれば、使えるようにすれば良いだけのことである。それを阻むのは「権威」という縛りに他ならない。それは組織でもあるし、過去の名人が作ったブランドもあろう。こうしたことから自由になることが、また社会生活においても権威や組織にとらわれないで個人として自由に生きる道を学ぶことにもなるのである。


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