丹道逍遥 文始真経(二柱篇 十一〜十三 三極篇一〜三)「静」と大同
丹道逍遥 文始真経(二柱篇 十一〜十三 三極篇一〜三)「静」と大同
ここでは「大同」思想について説かれている。「大同」とは『礼記』(礼運篇)にある古代のユートピア思想である。「大同」の世では人々が互いに助け合い、邪な心を抱くこともない。そうであるから家に鍵を掛ける必要もない、とする。『文始真経』では「大同」の世の実現に外的と内的とがあるとしているが、大体において外的なアプローチを考えるのが儒教で、内的なそれを重んじるのが道教である。儒教では聖なる王が出て統治をすれば「大同」の世が実現される、と考える。一方、道教では人々が人の本来の心の在り方である「静」を自覚すれば自ずから「大同」の世となる、と教える。
こうしたことを『清浄経』では「人の心は静を好むものである。しかし欲望に引かれてしまっている。そうであるから常に欲望に捕らわれることが無ければ、心は自ずから静となるのであり、そうなれば心が澄んで来るので意識も清らかになる」としている。つまり人が「清らかな意識」を持つようになれば自ずから「大同」の世は実現されるわけである。その根源である「静」は誰でも持っているのであるが、それが実現されないのは欲望に迷わされているからに他ならない。こうした現実をよく知ることができれば、心は自ずから「静」となるのである。
劉宗周の「静坐説」には「目を閉じたり、聞こえてくる音に心が動かされないようにしたり(して集中しようとすることも)、足を組んだり、息を数えて(心を乱さないようにすることも)、師匠に自分の心の境地を指導してもらうことも必要ないのであり、ただ日常生活の中に『静』を求めれば良いのである」としている。それを「行住坐臥、すべてに静を観じる」とも述べている。あらゆる生活のシーンで「静」のあることを感じよう(イメージしよう)とするわけである。そして、それを得ることで自身の内に「大同」の世界観が開け、最終的には社会全体に「大同」の理想が実現されるようになるのである。
(十一)
関尹子が曰われた。
五種類の雲の変化により、その年の豊凶を占うことができる。
八種類の風の向きによって、その日の吉凶を占うことができる。
こうしたことからは吉凶や休や災害、幸運が、
一なる気の働きによって生じていることが分かる。
これは人間関係でも同じで、あらゆることは全ての関わりの中で生じているのであり、
これは天地自然と同じである。
そこには、ただ一なる気があるのみで、他には何も無いのである。
(十二)
関尹子が曰われた。
天地のあらゆる部分は個々の物で出来ている、
人も、それぞれの人が居る。
それぞれの「道」があるのであるが、何れも「道」と共にあることに変わりはない。
あらゆるものはそれぞれが独立してあるのではないのである。
全てが関連してなければ「道=法則」もまた成り立ち得ない。
三極篇
(一)
關尹子が曰われた。
聖人が天下を治めているは自己の能力によるのではない。
それは、いろいろな人の叡智を集めて為されているのである。
こうした(それぞれの叡智を集めて使うことのできる)ことが「聖人の賢さ」である。
人とは愚なものである。
つまり個人で知り得ることには限界があるのであり、
それはどうすることもできないものでもある。
そうであるから物事は、それを行う個人ではなく結果のみによって正しいかどうかが決められなければならない。
つまり結果が良ければ、それは正しいということであり、
結果が悪ければ、それは間違っていることになる(のであって、その成功も失敗もそれに関わった全ての人の行為の結果なのであるから、これらを個人の単位で評価するべきではないのである)。
太古に「大同=平等な社会」があったと考える人は、それを重視する。
今「大同」が実現されなければならないと考える人は。今それが実現されなければ意味がないと考える。
または(「大同」社会を人々の意識改革で実現しようとする)内的な「大同」と、
(「大同」社会を制度的に実現しようとする)外的な「大同」においては、
内的な「大同」がより重要であると考える人もいれば、
外的な「大同」がより重要であると考える人も居る。
そして、こうした対立は全く解消することがない。
こうした対立においては互いに「謙譲」の気持ちがなければならない。
これが最も重要と言える。
「謙譲」の根源にあるのは(あらゆるものを受け入れる)「虚」である。
「虚」であることを受け入れたなら、どのような対立も生まれることはない。
また、あらゆることは「易=移り変わる」であると分かれば、
ひとつの立場、自己の考えに過度に執着することがなくなる。
つまりあらゆることは「変化の過程」にあるのであり、
今は前と後ろの「中間」であるに過ぎないからである。
そうであるから謙虚になって礼儀を守るべきなのである。
天下の人が和するには合奏するように人々が協力するべきであろう。
天下の人が富むには、それぞれの営みが円滑に働くことが重要である。
つまり人々が協調して経済生活が安定していれば、互いの理解が進むことであろう。
こうしたことを実現して行くには「法制」が必要である。
こうしたことを実現して行くには「人材」が必要である。
聖人は自分一人で天下を治めようとは考えない。
天下の人々そのものをして天下の人々が治まるようにするのである。
天下を実質的に治ているのは「聖人」ということになるのかもしれないが、
「聖人」はそのようには振る舞わない。
つまり太古の王である「堯、舜、禹、湯」が天下を治めるのは、
全くの「自然」によっていたのである。
(二)
關尹子が曰われた。
あらゆる物事においては「反対の立場」にあるものが存している。
「生」があれば「殺」がある。
「愛」があれば「悪」がある。
こうしたことが全てに存している。
「美」があれば「醜」が居る。
「厚」があれば「薄」がある。
(三)
關尹子が曰われた。
聖人の道とは、
聖人が天からの司令(天命)を受けるところにあるのではない。
それは、もっぱら自然であることにある。
聖人の徳は、何か「徳」とされることが実践されるとことにあるのではなく、
無自覚に「徳」そのものが身にいていなければならない。
聖人の振る舞いも、意図して行動されることなく、
ただ自然のままにある。
そうであるから聖人は「道」を意識しないし、
「徳」もそうである。
振る舞いも、それが意識されることはない。