道徳武芸研究 忘れられた日本の内功剣術〜『日本の剣豪』を読む〜

 道徳武芸研究 忘れられた日本の内功剣術〜『日本の剣豪』を読む〜

最近、久しぶりに『日本の剣豪』(全5巻 旺文社)を読んでみた。同書が刊行されたのは1984年から85年にかけてであるから、最初に読んだのは40年くらい前であるかもしれない。よくこれだけのボリュームの本を作ったものだ!と驚くばかりであるが、日本古武道大会の第一回は1978年で、松田隆智の『謎の拳法を求めて』が出たのが1977年であることからして、80年代半ばには古武道がある程度の認知を得ていたということもできるのであろう。また『日本の剣豪』は時代小説であり、その意味で史実を知るというより小説として楽しまれるべきものなのであろうが、ただそれでも上泉伊勢守秀綱(桑田忠親)から近藤勇(井上恵子)までを読んでみると、剣術は上泉伊勢守秀綱や塚原卜伝や宮本武蔵が生きた中世末期と、千葉周作や男谷精一郎、近藤勇などの生きた近世末期に大き変革期を迎えていたことが分かる。

日本の剣術は中世末期に集大成をされ形が確立する。そして近世末期には竹刀による試合が中心となった。現在の「剣道」が形つくられるのも幕末あたりである。そうであるから我々がイメージする「剣豪」は、かつての時代のそのままではないことはよくわきまえておく必要があるであろう。これは柔術においても、現在「柔術」として考えられるのは「柔道」のそれであり、そこには突きや蹴りのイメージは希薄である。ただ現在でも諸賞流や心眼流などは突きや蹴りを重視しているし、歴史的には天神真楊流の磯又右衛門が当身の実戦性をよく認識していたり、不遷流の武田物外は「拳骨和尚」の異名を持っていたりしていて柔術は投げや逆だけではないことが想像されるわけである。幕末に生きた平山行蔵には、本を読む時に板に拳を打ち付けて鍛えていたというエピソードもある。多岐川恭(「平山行蔵」『日本の剣豪』)によれば、行蔵は朝起きて早々に、

「行蔵の朝の鍛錬については、七尺棒(約二一二センチ)を五百回、居合太刀を抜くこと二、三百回とも、居合三百本、九尺棒(約二七三センチ)素振り四百本とも伝えられる」

とする稽古をして朝食を摂ってから読書にかかるのであるが、

「読書の際は槻の二尺(約六一センチ)四方の板を敷物にし、これに両のこぶしを突き当て突き当て読書した。それでこぶしは石のように堅くなっていた。行蔵は人に、このこぶしで人の胸板くらいは突き砕けると言っていた」

とある。兜割りで有名な榊原鍵吉も身長180センチで体重は70キロであったが上腕は55センチほどもあったという。現在「力を使わない」ことが重視されるが、かつてはそうしたことは全くなかったのである。鍵吉が見事に兜を割ったことを綱淵謙錠は「榊原鍵吉」(『日本の剣豪』)で、

「この瞬間、一度も人を殺したことのない鍵吉の剣名が、歴史に深く刻まれた」

と記述している。もはや剣術の試合ではなく、兜割りや竹刀での打ち合いで「剣豪」と評される時代となったということであろう。また幕末の剣豪は行蔵もそうであるし千葉周作もひじょうな怪力の持ち主であったとされるように剛力の人が多かったのである。ちなみに植芝盛平も常人を越えた力を持っていた。一方で勝海舟は『氷川清話』で自身の稽古の様子を次のように記している。

「毎日稽古がすむと、夕方から稽古衣一枚で、王子権現に行って夜稽古をした。いつもまづ拝殿の礎石に腰を掛けて、瞑目沈思、心胆を練磨し、しかる後、起って木剣を振りまはし、更にまた元の礎石に腰を掛けて心胆を練磨し、また起って木剣を振りまはし、かふいふ風に夜明まで五、六回もやって、それから帰って直ぐに朝稽古をやり」

これはまったく拳術(易筋)と静坐(洗髄)を両輪とする中国武術と同じである。つまり海舟は内功的な練習をしていた、ということである。禅と剣術とは近世の初めに沢庵と柳生宗矩との交流に始まると言えようが、芸能と禅との交わりはそれ以前に立花や喫茶において既に見られていた。芸の蘊奥を極めようとするのであれば、心の修練が必要であるとされたわけである。しかし結局はそれがシステムとして完成されることはなかった。山岡鉄舟なども剣禅一如を実践する代表的人物のようにされるが、豊田穣の「山岡鉄舟」(『日本の剣術』)では、

「鉄舟は一刀正伝無刀流を名乗った。これは一刀流の開祖・伊藤一刀斎景久の弟子・小野忠明(略)から伝わった一刀流を鉄舟が継いで、一刀正伝を冠したものである」

とある。鉄舟の説く「無刀」とは「刀」ではなく我が「心」によって相手の「心」を打つためであるとする。しかし、こうしたことも竹刀での打ち合いでは、なかなか必然性を持ち得ない。それは男谷精一郎が試合で三本の内一本は相手に勝ちを譲ったことが名人の証と語られるように、ただ一手で終わるような真剣での勝負のような心持ちをどうしても竹刀での打ち合いでは持ち得ないからである。現在、剣道でも稽古の中に坐禅的な時間を取り入れているところは少なくないと思われるが、それが形式に留まらざるを得ないのは、竹刀稽古の上から仕方のないことなのであろう。

行蔵は幕末に国防への関心が高まっている時に軍隊で使える武術を念頭において稽古をしていた。一方の海舟は暗殺が横行する中での護身が眼中にあったようである。つまり身体を鍛えるのは攻撃系であり、精神を練るのは護身系であるとすることもできるであろう。実際において重要なことは肉体にも精神にも偏重することなく自己の必要精に応じた稽古を続けることにあると思われる。


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