姚姫伝『老子章義』(第三十三章から第三十八章)陳「微明」と太極拳

 姚姫伝『老子章義』(第三十三章から第三十八章)陳「微明」と太極拳

今回「微明」なる語が出てくる(第三十六章)が、これは太極拳では陳微明に見ることができる。陳微明(1881-1958年)は清の時代の官僚で清史の編纂に当たっていた。始めは孫禄堂に師事して後に楊澄甫に学んだ(開門弟子)。『太極拳術』『太極拳答問』『太極剣』などの著書があり、多くの人に太極拳を教えた。学識のある陳が「微明」を号としたのは、ここにも見られるように「柔が剛に勝るし、弱は強に勝っている」とあることに依るものであろう。これはまさに太極拳の奥義に通じている。「微明」とは「かすかな光」のことで「物事の奥深くにあってかすかに伺うことのできる真実」を意味している。老子は一見して対立関係にあって何らの共通点もないように見える「縮小」「拡大」や「弱さ」「強さ」も、それぞれ反対となるものがあって始めて成り立っていることを「微明」なるものとして指摘しているわけである。そして「柔が剛に勝るし、弱は強に勝っている」という「道理=道」も、そこには「微明」なる深い道理があるとするわけである。それは柔は剛を含み、剛は柔を含んでいるからに他ならない。つまり柔は容易に剛へと転じ、剛は容易に柔へと転ずるのである。攻防でいうなら正面は「剛」で押せない体勢も、横は「柔」であるので簡単に押せる、といったことになる。つまり視点を切り替えることで「剛」「柔」や「弱」「強」は簡単に入れ替わってしまうのである。また太極拳の「柔」の稽古は「剛」を育てるためであり「柔」のベースとなるのが「剛」である安定した足腰の強さにある、という関係にも剛柔の関連を見ることが可能であろう。太極拳のゆっくりとした動きは足腰の鍛錬を第一目的としているわけで、それにより全身に内なる「剛=中心軸の安定」を育てるわけである。そして、そうした「剛」から発しつされる力(勁)が「柔」となることが見出されたのであった。

ちなみに1948年に陳は台灣に来て拳を伝えている。当時の新聞「新生報」には「上海の太極拳大師・陳微明 台灣に来たる」として報じられたという。



姚姫伝『老子章義』(今回は姚姫伝の注はない)

広く知識を得ようと努める者には知識が得られる。深く理解をしようとする者には理解が得られる。他人より勝ろうとするには努力が必要である。自己完成をしようとするなら自己をよく知らなければならない。満足できる者は貧しさを感じることはない。努めて行おうとするなら志がなければならない。失うことがなければ長く維持が可能である。もし死んだとしても、生前そのままの姿を保つことができれば永遠に生きることができる。

大いなる道はどこにでも存している。それは対立関係にあるものにも共に存している。あらゆるものは道があるので存在することができている。道と共にある者は功績があっても誇ることがない。あらゆるものと融和して、自分が中心となろうとすることもない。何時も無欲であり、自己を誇ることもなく、あらゆるものと等しくあって、あらゆるものが平等であると考える。自己を誇る者は、どうあっても自然ではあり得ない。自己を誇ることがないからこそ大いなることを為せるのである。

道というシンボルとして表されるものを得たならば、あらゆるところにあって弊害の生まれることはない。安らかで楽しくあって食べることに困らない。道にある者は(執着がないので)濃い味を好むことはない。視ることにも執着しないし、聴くことにもこだわりを持たない。そうであるので、どのようなことでもあきることはないのである。

縮小を求めるならば、必ず拡大がなければならない。弱さを得ようとするならば、必ず強さがなければならない。廃除しようとするならば、必ず興起されなければならない。奪おうとするなら、必ず与えていなければならない。こうしたことを「微明=奥義」と謂う。柔が剛に勝るし、弱は強に勝っているのである。

魚は深い水の中から飛び出すことはできない。国家に何が有益であるかは明らかにされるべきではない。

道は常に無為であるが、為されるべきことは過不足無く為されている。王侯がよく道を守ることができたならば、あらゆるものはあるべきようになるであろう。あるべきようになって、あるべきことが行われるであろう。自分が道を行うに際しては(その功績を誇って)名を上げようとはしない。そのままであろうと努める。それは欲を持たないということでもある。あえて治めようとしなければ、天下はあるべきように治まるのである。

(道と一体である)上徳は徳であるように見えないものであるが、それこそが本当の徳なのである。(道と一体ではない)下徳はまさに徳であるように見えるが、それは本当の徳ではない。上徳は無為であるがあらゆるところに行き届いている。下徳は有為であり、あえて行なわれる。上仁を行うのは無為による。上義を行うのは有為であり、上礼を行って相手が応じることがなければ、それは「腕を押して来たら引く(こちらが礼儀を示しているのに、それに応じない相手には礼儀を尽くさない)」ことになる。つまり道が失われると徳が言われるようになるのであり、徳が失われると仁が言われるようになり、仁が失われると義が言われるようになり、義が失われると礼が言われるようになるのである。礼が言われるようになるのは、人々の間に殆ど誠実さが無くなってしまった時で、そうなれば社会の乱れる第一の原因が生じたことになる。道を顕彰しようとする者が賢者とされるのは愚かさの始まりである。本当に優れた人は道を大事にしており、軽んずることはない。本当の道のあるところには、まさに道と思えるようなものはない。そうであるから(真の道の実践者は)虚飾を取ることなく、真実を求めるのである。


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