道徳武芸研究 金陵八卦掌故事「七十二暗腿の謎」
道徳武芸研究 金陵八卦掌故事「七十二暗腿の謎」
金陵八卦掌とは南伝八卦掌とも称されている系統で「金陵」つまり南京に伝承された八卦掌の系統である。本来、八卦掌は董海川が北京に伝えたものであったが、1912年に中華民国が成立すると首都が北京から南京に移動する。これにともない太極拳を始めとする多くの北方の武術が南方へと伝えられたのであった。金陵八卦掌は陳済生が1950年代に南京薬学院で教えていたものに淵源している。この系統は董海川から程廷華、そして趙慶長に伝えられたものである。50年代というが『金陵八卦掌』には「解放の初め」とあるので49年あたりからということであろう。この頃は専ら太極拳を教えていていたらしい。それは八卦掌が「古い時代のもの」と見なされかねない風潮があったためのようである。ちなみに簡化二十四式が制定されるのが1956年であるから一般的に太極拳は「運動」であり人民のためのものであるが、八卦掌などの「武術」は「排除されるべき旧時代の遺物」と見なされかねないものであったようである。『金陵八卦掌』を著した袁子府(1942年生まれ)は陳の弟子である。同書には「八卦掌の解けざるの謎」として七十二暗腿が取り上げられている。
「私(=袁子府)が八卦掌を習い初めたころ八卦掌には七十二暗腿なるものがあるのを聞いた。『暗腿』という名前からすれば『見えない腿法』であるということになる。七十二腿というのはあまりに多いのではないか、と思ったが、とにもかくにも『すごい』腿法であろうと思って、それを習うのを楽しみしていた。熱心に練習していれば必ず七十二暗腿を教えてもらえると思っていた」
しかし結局は七十二暗腿を教えられることはなく、今に至るまで、それについては「謎」のままであるという。しかし後年、ある種の悟りを得たとしている。これは師の陳済生の「八卦掌の歩法は腿法である」とする教えによる。つまり八卦掌におけるあらゆる腿法は歩法の変化に過ぎないのであり、その基本となるのは扣歩と擺歩である、ということであった。袁は扣歩と擺歩の腿法への変化について以下のように述べている。
扣歩は「扣腿、別腿、踹(せん)腿」が腿法への変化として挙げられる。
擺歩は「鎖腿、踹腿、截腿」が腿法への変化として挙げられる。
つまり歩法は基本(体)であり、腿法は応用(用)なのである。つまり実戦で用いる腿法の基本的な力を養うのが歩法つまり走圏となるわけである。ちなみに扣歩の「扣腿」は、足先を相手の足に掛けて引いてその態勢を崩す腿法である。「別腿」はいわゆる下段回し蹴りである。「側踹腿」はエッジの下あたりで蹴るもので、それには低と高がある。低側踹腿は脛(すね)を蹴るもの、高側踹腿は陰部を蹴るものとされている。
また擺歩の「鎖腿」は相手の足の裏側から膝を接して、その態勢を崩すものである。「截腿」は相手の前足を足裏で蹴って出る動きを止めようとする。ほかには「正踹腿」があり、これは足裏で低正踹は膝を踏むように蹴るもので、高正踹腿は足の付根のあたりを踏むように蹴って動きを止めようとする。
巷間、「踹腿」は正踹腿のあることを知らないで、側踹腿だけであると思って「横蹴り」のように上に蹴っているケースも見られるが、あくまで踹腿は踏み込むような勢いがなければならない。扣歩の側踹腿も、一見して跳ね上げるような蹴りであるが、その後には踏み込むような勢いを含んでいる。それは側踹腿も踏みこむ動きである歩法の変化であるからに他ならない。ちなみに側踹腿は九九太極拳に入っているが低い蹴りとなっている。程派の八卦掌では順勢掌に見ることができる(孫錫コン『八卦拳真伝』)し、龍形八卦掌では多用されている。
「私見によれば『七十二暗腿』も良いであろうし『六十四掌』も良いであろうが、これらはあまりに技数が多いように思われる。このように多くの技は覚えるのも大変であるし、実戦で使うにしても、どれを使って良いか迷ってしまうであろう。そうであるから、このようなものを多くの人が練習するのは時間の浪費であるし、無駄な労力を費やすものであるとしなければなるまい」
そして劉鳳春が単換掌だけを練って、その功夫の高いことを天下に知らしめていたエピソードを紹介して重要であるのは「本質」「根本」を深く会得することであると袁子府はしている。また孫禄堂も七十二截腿、七十二暗腿の名称は『八卦拳学』に出ているが、これらは全て八母掌に含まれている、とも述べている。
(参考文献 袁子府『金陵八卦掌』)