丹道逍遥 文始真経(三極扁 二十一一〜二十八)天機を知る〜「道」は「一息」にある〜

 丹道逍遥 文始真経(三極扁 二十一一〜二十八)天機を知る〜「道」は「一息」にある〜

ここでは「道」は「一息」にあるとされている。弓や琴を習う時には技術を教わるわけであるが、最も重要なことは技術ではないとする。それは弓を射る技術、琴を演奏する技術そのものではなく、それを使わない時の方がむしろ重要であるとするわけで、具体的には矢をつがえて射ろうとする時の「間」、琴を奏でようとする時の「間」こそが真に重要なのである。日本でも、こうしたことを「呼吸」ということもあるので、ここで「一息」としていることともニュアンス的に合うものがあるといえよう。「一息」の「一」とは「道」と一体であることを示している。間合いとは「道」と一体となった時に生まれる、ということである。

つまり「一息」とは静から動に移る「時」ということである。陰から陽への変化である。こうした変化のことを「天機」という。「天機」とは「天の変化の機会」でもあるし「天の機密」でもある。文始派で最も重視されるのは「天機」を知ることという。ただ「天機」は予め知ることはできない。自ずからそれに合う行動ができるに過ぎない。これを無為自然という。「天機」を知ろうとして人はいろいろな方法を試してみた。占いをしたり、神仏のような超越的な存在に伺いを立てたりした。しかし、何れもうまく行くことはなかった。これを文始派では「天機」とずれがあるためとする。例え予め「天機」を知っていても、それに完全に合わせることができないから、それを利用できない、というのである。つまり意図して「天機」に合わせることは不可能で、自ずから合う状況で合わせるしかないというのである。常に無為自然であれば自ずから「天機」と一体化できるようになる。そうであるから無為自然の状態を得て、自ずから「天機」と一体であるような生き方をするべきではないか、というのが文始派の教えるところである。



(二十一)

関尹子が曰われた。

弓矢を習う時には射方を習うものである。

琴を習う時には奏法を習うものである。

しかしそこには得るべきものはない。

得るべきは「やらない事(一息)」である。

それは「道」であり、そこには形はないし、他に比べるものもない。

ただ、それは「やらない事」なのである。


(二十二)

関尹子が曰われた。

二人が弓を射れば、優劣が生まれる。

二人が何かを習って、その技術を競えば勝ち負けが生まれる。

二人が「道」を修して合っても比べるものはない。

示すものもなく、巧拙もなく、勝ち負けもない。


(二十三)

関尹子が曰われた。

吾が説く「道」は海のようである。

億万の金銭を投じても、それを得ることはできない。

億万の玉石を投じても、それを得ることはできない。

億万の汚れを投じても、それを得ることはできない。

小さな蟹や、小さな魚に「道」がないのではない。

大きな魚や大きな鯨にも「道」を見ることはできる。

いくら「道」があっても有り余ることはない。

いくら「道」を分けても足りなくなることはない。


(二十四)

関尹子が曰われた。

吾が説く「道」は薄暗い暗い所にあるもののようである。

「道」が明るいところだけにあるとすれば、暗いところでは見えなくなってしまう。

反対に「道」が暗いところだけにあるとするならば、明るいところでは見えないことになる。


(二十五)

関尹子が曰われた。

小人は「悪」なるものである。

君子は「善」なるものである。

聖人は「無」なるものである。

つまり聖人の得るところは「無」なのであり、

それが「道」なのである。


(二十六)

関尹子が曰われた。

吾が「道」は両刃の剣のようである。

それはものを切ることができる。

そうであるからそれを持つと(相手だけではなく自分の)手をも傷つけてしまうことになる。


(二十七)

関尹子が曰われた。

器を豆とを区別することがなければ、器と豆とを識別することはできない。

瓦と石を区別することがなければ、瓦と石とを識別することはできない。

「道」は、それが何であるかを問うたり、他のものと区別することができるものではない。

普遍的にあるのが「道」であるから、

それを他と区別することはできないのである。


(二十八)

関尹子が曰われた。

「道」を尊いと思う者は、それを崇め奉る。

しかし「道」は一定の形を持つものではない。

「道」を知ることも、知らないことも、聖人は共に求めはしない。

聖人は「道」を求めなくても「道」と共にあることを知っている。

「道」を尊いものとしなければ、愚かな人は「道」を尊べない(が、それは間違っている)。



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