道徳武芸研究 「簡易」なるものへの回帰・戸山流軍刀操法
道徳武芸研究 「簡易」なるものへの回帰・戸山流軍刀操法
「易経」では「簡易」なるものが「道」に近い形であるとしている。「簡易」なるものとは「虚飾」のないものでもある。世に機能美なる語もあるが、これは機能のみを考えた時に優れた姿形が生まれるということであり、そこには「虚飾」の入り込む余地はない。つまり使用目的が明確であり、それを果たすのに有効である時には、ある種の「簡易」性が生まれ、ここに機能美も生じてくるわけなのである。
ここでは抜刀術・居合を考えてみたいのであるが、抜刀術は16世紀に林崎甚助に発するとされている。当時は1メートル程もある大太刀を使っていたので腰に刀を差した状態では抜くことができなかった。大太刀は倭寇を通じて朝鮮や中国にも伝わったが、その刀法の伝書を見ると初めに半分くらい抜いて、刃を持って更に抜くという二段階を経て抜刀が可能となるとしている。これを体を開いて抜く「卍抜」を考案して帯刀のまま抜刀を可能としたのが甚助であった。しかし近世になると刀は80センチくらいが一般的となり抜刀に特別な技術は必要なくなった。結果として抜刀術は不要となったのであるが、基本的な刀の操法であるとか、真剣に慣れることや刀を使うための体作りなどに目的が移り抜刀術というより居合術と称されるようになって来る。しかし、居合が剣術の基礎というより、それ自体を修することが目的となると田宮流や英信流などの流派が生まれるようになる。そして、その技数は数十本にまで増えて行くことになる。これは本来は剣術へ至るための基礎鍛錬という手段であった居合が、居合そのものを練るという目的化した結果、多くの必ずしも必要でない技が加えられて行ったためである。
居合の「居」は柔術では居取りがあるように坐った状態での攻防ということである。居合では坐った状態から立ち上がりながら刀を抜くことで足腰を鍛錬しようとする。本来、坐る時には刀を外すので、坐った状態で抜刀することはない。つまり居合は純粋な鍛錬の形なのである。ちなみに「江戸開城談判」の絵では勝海舟と西郷隆盛の会談の時、勝は刀を左に置いている。これはすぐに抜刀できる位置に置いているわけで、普通は右に置くことになっている(他の絵では右に置いているものもある。「江戸城開城談判」は緊張感を演出するためであった可能性もある)。居合を健康法として熱心に行った人物に福沢諭吉が居る。他に諭吉は米搗きも健康法として行っていたらしい。居合も米搗きも足腰をベースとした全身の鍛錬であり、良い運動であったことであろう。
近代以降は廃刀令もあって帯刀をする習慣は廃されてしまうので、武術として居合を練習する意味は失われてしまう。しかし軍隊では将校を中心として軍刀を持つことが許されていた。そこで一般的な刀の操法を知っておく方がよかろうということで、陸軍の戸山学校で現在、戸山流居合道と称されている居合のもととなった軍刀操法が考案される。現在の戸山流居合道では他の居合道よろしく和装で行われてるが、本来は軍装・洋装で行われるべきものであった。ただ戸山流も実戦での必要性はほぼ無いといっても良かろうし、それほど練習されたようでもない。
ただおもしろいことに戸山流では鍛錬法としての意味合いは少なくなり、立ち技が中心となっている。つまり「居合」ではなくなってもとの抜刀術に戻ったわけである。ちなみに戸山流の居合には「前方の敵/右の敵/後の敵/直前の敵/前後の敵/右左前の敵/突破」の八本が基本としてある。つまり抜刀術に限ればこれくらいで充分であるということである。ただ抜刀だけを目的にした場合には、とても数十本もの技は必要ないわけである。戸山流を普及するのに功績のあったの中村泰三郎(中村流抜刀道)は「抜刀」を称しており、こうしたところにも居合から抜刀への「先祖返り」を見ることができるのである。それに中村には洋装での抜刀をしている写真も残されている。現在、戸山流は居合道として古流と同じような練習がなされて技数も増えているようであるが、これは現代においては抜刀をすることの必然性も喪失されて、一種のたしなみとして練習されるようになっているためと思われる。実戦、実用を主眼とした時代の武術とは実は単純・素樸で簡易なものなのである。