姚姫伝『老子章義』(第二十五章から第二十八章)聖なる王の時代〜王もまた大なり〜

 姚姫伝『老子章義』(第二十五章から第二十八章)聖なる王の時代〜王もまた大なり〜

ここでは「『王』もまた『普遍的である』といえる」(第二十五章)と記されている部分である。これは原文では「王もまた大なり」とある。ここで老子は四大として「道、天、地、王」をあげている。その後に「道、天、地」と「人」それに「自然」が等しい法則(法)によっているとする。つまり「自然=道=天=地=人(王)」は等しく「大」なるものであり「法」によっているとするわけである。この「大」とは普遍的であるということであり、「法」は一定の法則によっているということである。つまり、こうした法則は「道」つまり「道理」なのであり、それは普遍的な存在であるということである。ここで注目されるのは「王」が自然であり道の表れであるとされている点であろう。老子もこれが特異な主張であることを気にしていたようで「道は大」「天は大」「地は大」としつつも「王もまた大」と記している。これは「王」と「大」とが一般的には直ぐに結びつくものではないという前提があるためであろう。

自然と一体となった「王」とはどのような存在であるのか。太古の中国では「聖なる王」が居たとされる。これは架空のことのように思われて来たが、古代の都市の発掘が進んで来ると都市の遺跡は発見されるものの特定の権力者の存在を示すような王宮のようなものが認められないことが近年言われるようになって来ている。これは中国だけはなくインドなど世界各地の古代文明の遺跡で確認されているし、1200年前の宗教施設とされるギョベクリ・テペにも特定の権力者の存在を示すような遺跡は認められないらしい。ただ大きな施設を築くことが可能であったのは、そこに何らかのリーダー(王)の存在を考えないではいられないが、おそらくこうした「王」は何ら収奪をすることのなく他の人と同じ生活をしていたのであろう。こうした社会においては収奪という発想そのものがなかったと思われる。老子の「樸」は、そうした素樸な社会のことであったのではなかろうか。将来的に人類の意識が、収奪のとらわれから脱すれば、またこのような理想的な社会が実現されるのかもしれない。つまり「聖なる王」の時代とされている時は、実は卓越した王が統治をしていた時代ではなく、人々の意識が収奪を知らない「聖なる意識の人々」の居た時代であったと思われるのである。


姚姫伝『老子章義』(今回のところには姚姫伝の注釈はない)

物は混沌とした中から生まれている。混沌とは天地が出来る前の状態であり、安定しており静かである。他に依存することなく成り立っており変化することもない。周行をしていて、それが破綻することはない。これは(ここからあらゆる物が生み出されているので)「天下の母」といわれている。私はその名を知らないので仮に「道」と称している。あえて「道」がどのようなものかというなら、これは「普遍的である(大)」とすることができよう。「普遍的である」とは(永遠なる)「運動(逝)」であり(永遠なる)「運動」とは「極まりがない(遠)」のであり、「極まりがない」のは「循環する(反)」からである。そうであるから「道」は「普遍的である」のである。「天」も「普遍的である」といえる。「地」も「普遍的である」といえる。「王」もまた「普遍的である」といえる。つまり「道」には、これら四つの「普遍的である」ものがあるのであり「王」はその一部である。「人」の法則は「地」の法則と同じである。「地」の法則は「天」の法則と同じである。「天」の法則は「道」の法則と同じである。「道」の法則は「自然」の法則である。

「重」は「軽」があることで生まれる。「静」は「躁(さわがしい)」をベースとして生まれている。そうであるから聖人は終日、こうした法則をよく心得ている。そうであるから栄えているところを見て、(それには必ず)栄えていないところのあるのを思うのである。そうであるから単に栄えているところだけに捕らわれることはない。つまり、どのような大きな王国の君主であっても(「道」と一体である君主は)自分を重要なる人物とのみ考えることはないのである。もし大国の君主が自分の身のみを重要と考えて、他の人々を軽んずるなら、それは「道」を外れることになる。そうなれば、どのような大国の君主であっても、(「道」から外れているので)その地位を保つことはできないのである。

「善」なる行為は(自然と一体となって行われるので)その跡を残すことはない。「善」なる言は(自然と一体であるので)間違うことはない。「善」なる予想は占いに頼ることはない。「善」をして戸を閉めると鍵の使われることがなくても、(その戸を開けようとする人は居ないので)それが開かれることはない。「善」をして結べば縄を使わなくても、(それを解こうとする人が居ないので)結びが解けることはない。そうであるから聖人は常に「善」をして人を救うので、それに漏れる人は居ない。「善」をして物を扱うので、捨てられる物はない。こうしたことを「襲明(「道」の叡智を受け継ぐ)」という。このように「善」なる人はよく物事が分かっているので、不「善」なる人の手本となるのであり、不「善」なる人は「善」なる人が居ることで不「善」であることが分かるのである。「善」なる人を手本として貴ぶことなく、不「善」なる人を(「善」なる人を知ることのできる存在として)愛することがなければ、大いなる迷いも(それが大いなる答えを見出すベースとなることであるから)「要妙(一見、不要と思われるが実は奥深く大切なもの)」なるものなのである。

「雄」を決めれば「雌」が定まることになる。およそ(「道」の象徴としての)「谿」が、(「道」の象徴としての)「谿」であるのは常に(「道」の象徴である)「徳」と一体であり(同じく「道」の象徴である)「嬰児」と同じであるからである。「白」が決まれば「黒」が定まる。「天下の式(普遍的な法則)」が、そうであるには常に(「道」の象徴である)「徳」と一つでなければならず(同じく「道」の象徴である)「無極」に帰するものでなければならない。「栄光」なることが決まれば「恥辱」なることも定まる。天下の「谷」が「谷」であるには常に「徳」が充分になければならず(それは「道」の象徴である)「樸(「道」の象徴)」に帰するものでもある。(大いなる「一」である)「樸」が分かれると形が生まれる。聖人はこうした理屈をよく知っているので(常に自分を卑下しており、そうであるから)自ずから指導的立場に立つ形になっている。つまり(「道」とひとつである)「大いなる仕組み」は大いなる「一」なのである。


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