道徳武芸研究 競技「試合」を考える〜ゲーム化の問題点〜

 道徳武芸研究 競技「試合」を考える〜ゲーム化の問題点〜

武術に競技「試合」が本格的に取り入れられたのは嘉納治五郎によるもので、武術のスポーツ化を目途とした上でのことであった。もちろん試合そのものは古くからあったと考えられるが、ここでの競技「試合」とはトーナメントで勝ちを争うようなことを想定している。一般にこうした「試合」は西洋ではゲームgameとされて決闘duelとは区別される。この違いはルールがあるかどうかである。その意味ではかつての日本の試合は決闘に近いもので、どのような試合になるのかは相手の「恥」の感覚に頼っていた。これは中国でも同様で「武徳」に依存していた。

体育として武術を行う際のゲーム的な「試合」は競技者をして競技への興味を持たせることになるとされている。つまり「試合」に勝つことが体育への第一のモチベーションとなるということである。そうなると競技者は勝つためにルールの中で最大のパフォーマンスを行うように努力することになる。つまり競技「試合」を中心とした場合には常に「勝つ」ことに縛られてしまうわけで、これが日本の武術とは根本的に相容れないものなのである。

日本の武術は「やわら」をベースとしている。「やわら」は近世あたりからは「柔」として柔術が、その代名詞のように思われるようになる。そうであるから「柔術」と書いて「やわら」と読ませることもあるわけであるが「やわら」は聖徳太子の憲法十七条から争いを起こさないためには「やわら」かくあることが大切であるとされて来た。こうした「やわら」かくあることを習得するための方法が「柔術」であったわけで、それは争いの起こることを未然に防ぐものであった。そうであるから基本的には試合をして相手に勝つことを目的とはしていないのである。つまり試合はあくまで自己や相手の技量を確認するために補助的に行われるものに過ぎなかったわけである。そうであるかた稽古の中心は形の繰り返しであった。

柔術では相手を「やわら」かくさばくことで常に自分が「やわら」かくあることを修するわけである。そして、そうした心身の状態が常に保たれれば、争いが起こることもなくなる。本来は、そうした境地が目指されるべきであったが、そこまでの思想的な発展(明確に意識される)までは至ることはなかった。ただ以下に述べるような史的な経緯などから考えると必然的に、そうしたことの出現が予測されることにはなる。

理念としては古代の十七条憲法に「やわら」かさによって争いを起こさせないことは明記されているのであるが、具体的にはどうしたら良いか、まではいまだ分からなかった。これが武術として史上に見られるのは「影」を発見した影流(愛洲移香斎)からであった。「影」とは「死角」のことで、入身で相手の死角に入れば、直接に相手の攻撃に対することなく相手を制することができることが見出されたのであった。しかし、この段階では相手を制するだけであり、攻撃の発生を止めるというところまでは考えが及んでいない。これを改革して生まれたのが新陰流(上泉信綱)である。新陰流は影流から生まれているのであるが、伝書によっては、わざわざ「影」を消して「陰」と書き直しているものがある。これは「影」の単なる死角からの入身だけではなく、それに「転身=転まろばし」を加えることで相手の攻撃圏外に逃れることが見出されたことを示している。

影流の実態は中国の兵書『武備志』に記されているが、それによれば「猿飛」なる形があり、これが新陰流では「燕飛」として受け継がれている。この形は入身を使って、それにより相手の攻撃をかわして制する形となっている。一方で新陰流の三学園の太刀では死角に逃れる形である。興味深いことに、この形の「古伝」と称するものは入身のみで相手を制しているだけであり、これは影流そのものに近いことが分かる。考えるに上泉信綱が柳生石舟斎に託した「無刀」の研究は、こうした闘争の場からの離脱にあったのではなかろうか。入身で相手の攻撃をかわして攻撃圏外に出れば、もはや攻防そのものが生じないので刀も必要無くなる。これが「無刀」の眼目ではなかったか。

これがさらに明確になったのは夕雲流(針ヶ谷夕雲)であろう。新陰流の真伝を受け継ぐとする夕雲流では「相抜け」というもののあることが考えられた。これは互いに剣術の極みにある者が立ち会うことを前提としている。そうした存在を「聖」とする。つまり絶対的な存在ということである。しかし絶対的な存在が互いに対することはできない。絶対的な存在が互いに対するならばそれは相対的な存在でしかあり得ない。つまり相抜けで、それを行うのが唯一の存在である「聖」であるとした時に「聖」甲氏と「聖」乙氏が相対する、それ自体が生じ得ないのである。また、そもそも人は「聖」たり得ないということからしても相抜けは理論的に成り立たないのではあるが「相抜け」というニュアンスには入身ですれ違うという感じを汲み取ることができ、ここに新陰流から理論的に生まれ得るであろう「無刀」との関係を伺わないではいられない。

聡明な嘉納治五郎は柔道で強引な崩しを行わなければならないことに矛盾を感じていた。そこで合気道に着目するのであるが、嘉納が気づいていなかったのは強引な崩しが必要となるのは相手を投げようとするからで「柔」の原則通りに相手に反撃することなく、逃れるだけであれば「やわら」かさに矛盾する動きの必要は生まれて来ないのである。また合気道では終始「やわら」かな動きで投げを行っているように見えるが、それは合わせる稽古であるからであり、実際の攻防そのものではないことも嘉納は分かっていなかったようである。植芝盛平も「合気道は愛の武道」「万有愛護」とは言っていても、結局は相手を投げて関節を固めるという一連の動きとの矛盾を解決することはできなかった。柔術や合気道で「試合」を行わないのは、行わないのではなく、行えない為であり、その思想的な背景が充分に認識されるべきと思われる。


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