姚姫伝『老子章義』(第十六章から第十九章)「太上下」と太極拳〜老子の平等思想〜
姚姫伝『老子章義』(第十六章から第十九章)「太上下」と太極拳〜老子の平等思想〜
第十七章は「太上下知有之」と始まる。通常は「太上、下知有之」と読んでいる。つまり「太上、下これ有るを知る」として「究極的な君主は、民がその存在を認識しているだけで、その働きを考えることはない」という解釈をする。「太上(老君)」は老子をいう語であり、道教には太上道君という神も居るが、これは老子自身の教えであるので「聖なる君主」という意味であろうとされる。ただ第十七章全体からすれば「あらゆる価値観は相対的な関係によって成り立っている」ということを説いているのであるから、以下の現代語訳では「太(おおい)なる上下」と読んでいる。つまり「大原則としての上下関係」つまり「相対関係」である。最も聡明である人はあらゆる価値が相対的であることを知っている。それに次ぐのは一定の固定的な価値のあることを認めつつも「根本的には平等である」と思う人で、そうした人は特定の相手を尊んだりすることはなく、互いに仲良くしたり、褒め合ったりする。今の価値観は変わらないと思うのは、それに次ぐ知的レベルにある人であり、権威ある人を畏れる。さらに道理の分かっていない人は、自分より下にあると思われる人を蔑むのである。こうした人は倫理上も好ましくはない。
あらゆる価値は相対的な関係によって生まれており、基本的にあらゆるものが平等であるとする考え方を荘子は「万物斉同」としている。また中国では老子が説いたような知的レベルの違いを「先知先覚」「後知後覚」「不知不覚」と区別する。あらゆる価値が相対であることを知っている人は「先知先覚」の徒であろう。それを教えられて皆が平等であると分かるのが「後知後覚」の人である。そして価値は変わらないとして自分より高い地位にある人を畏れ、低い地位にある人を侮るような人は「不知不覚」であるといえる。
「太上下」はまた「太極」といってもよかろう。太極も究極的な対立関係にある陰陽が常に逆転するという考え方である。思想運動としての太極拳はこのような平等観、万物斉同を身体を通して習うものなのである。
姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)
「虚」であり「静」である深いところから万物は生まれている。私は物が生まれるのはこうしたところからであり、、またそうしたところへと帰る循環である(復)と見ている。物が盛んに生ずるところには「根」である。「根」は「静」である。「静」は「復命=循環の根源」である。「復命」は「常=変わることがない」である。「常」を知ることを「明」という。「常」を知らないのは「常妄=全くの無理解」なのである。つまり、このような循環のないところでは物の生成は成り立たないわけである。「常=普遍性」を知るとは、あらゆる物に通じること(容)である。あらゆるものを受け入れる(容)ことができるのは社会的には「公」である。「公」であるのは「王」である。「王」であれば、それは「天」と同じである。「天」であれば「道」と等しいことになる。「道」は永遠である。そうであるから我が「身」という限定した存在にこだわることがない普遍的な視点を得ていれば全ては順調となる。
(上と下とが互換性のある)究極的な上下の関係のあるのを知るのが最高のレベルである。それに次ぐのは(相手と自分の上下の関係は仮のものであることを知っていて相手と)親しんだり、褒めたりすることである。これに次ぐのは(相手が上にあることを絶対視してただ相手を)畏れることである。その次は(相手が下にあることを絶対視してただ相手を)侮ることである。(ここにある道理は)信ずることが少なければ、これは信じられないということである。
【「信」にはいろいろな意味が込められている。つまり「信」とは「誠徳」なのである。「信ずることが少ない」とは「誠徳」が実践されていない状況である。ただ「信」ということが強調されていなくても、それが実践されていないということにはならないこともある】
悲しく思うのは周りで言われている評価を絶対視するからである。功なり事を成すのは全て「自然」である(から他人との関わり、評価を気にする必要場ないのである)。
「大道」が廃れると「仁義」が言い出されるようになる。「智慧」が重んじられると「大偽」が生まれる。親族が和することがなければ「孝慈」が言われるようになる。国家が乱れれば「忠臣」の有ることが言われるようになる。
(統治者が)「聖」なるものに係ることなく「智」を捨てる。そうなれば民の利すること百倍となる。「仁」を絶って「義」を捨てれば民は「孝慈」を顧みるようになる。「巧」を絶って「利」を捨てれば物を盗む者は居なくなる。この三つは文章をしてだけでは真意が伝えられないことであろう。そうであるから行うことを決めてしまえば良い。それは「素」を見て「樸」を抱くということである。「私」を少なくして「欲」をわずかとするということである。「学」びを廃して「憂」いを持つことがないということである。
【ここで述べられているのは(1)「聖」「智」を捨て、(2)「仁」「義」を捨て、(3)「功」「利」を捨てることである。これら三つは何を言っているのか。これは行き過ぎを排した生き方である。しかし世間ではこうした生き方では、うまく行かないのではないかと思っている。そこで老子は実践すべきことを挙げている。つまり「素樸」であるということで「素樸」であれば「功利」を考えることもなくなる。「学」ぶことがなければ「聖智」や「仁義」を知ってそれにとらわれることもない。民が「寡欲」であれば「憂」うることもない。最後のところで文章が韻を踏んでいないが、古人はそうしたことにこだわらないものであり、韻を踏んでいないから何か欠けている文章があると考えるべきではない。つまり文章が欠けているのか等と「憂」うることなく、余計な「学」びを求めるべきではないのである。】