姚姫伝『老子章義』(第五章から第十章)嬰児、陽神、ホムンクルス
姚姫伝『老子章義』(第五章から第十章)嬰児、陽神、ホムンクルス
ここで老子は道に近い存在として「嬰児」をあげている。そして「嬰児」とは気の柔らかさの象徴であるとする。老子は若い生命力のあふれる状態は柔らかく、枯れて生命力が失われた状態は固いと考えていた。生まれたばかりの「嬰児」は、まさに生命力の象徴でもあったわけである。こうした「嬰児」のイメージは後の仙道では「陽神」へと繋がって行く。「陽神」は人の最も根源的な生命力である「先天真陽の一気」そのものであるが、この気は一個人の中では本来の自己である「性」と一体となって表れる。これが「嬰児」としての「陽神」である。ここでの「性」はヨーガなどでいう「真我」と同じである。「陽神」が得られれば老化へとただ進む身体は「嬰児」へと向かう「変容」をとげる。
仙道では、先天真陽の一気が開かれると胸のあたりで「陽神」が育って来る。そしてそれが「嬰児」くらいに成長すると頭頂から外に出して自分の周りを歩かせる。始めは近いところしか歩くことができないが、次第に遠くに行くことができるようになる。そして遠くのことを居ながらにして知ることも可能となるとされる。最終的には「陽神」は虚空と一体化されて消えてしまう。
こうした変容する「嬰児」のイメージと似たものに西洋の錬金術での「ホムンクルス」がある。もちろん「陽神」も「ホムンクルス」も実際にそうしたものが生み出されるわけではない。ただ「変容」の象徴的なイメージとして「嬰児」的なものがあるということであり、その変容には「若返り」ということが含まれていることをそれは示唆している。老子は、そのためには「綿綿」と称される状態であらなければならないと教えている。「綿綿」は呼吸のことで柔らかで、静かで、途切れのない呼吸であることが不老長寿に繋がると信じられていたのであり、それは「不老長寿」を「アンチエイジング」とすれば実際に有効でもある。
日本神話で小さな神である少彦名(すくなひこな)の神が医術や呪術を伝えたとされるのも「小さな神=童子神」に「若返り」と通じるイメージが感得されていたためであろう。ちなみに両部神道では天照大神は雨宝童子であるとされている。天照大神も童子神としてイメージされることがあったわけである。日本神道ではこうした「若宮(わかみや)信仰」は重要なファクターでもある。こうして見ると「若返り」の信仰は太古から地域を越えて広がる人類共通の普遍的なものであったことが分かる。
姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)
天地の働きは「不仁」で、あらゆるものを「芻狗」のように扱う。聖人も「不仁」で、人々を「芻狗」のように扱う。天地の間は「ふいご」のようではないか。その中は「虚」であり、曲がることがなくても、動いて、働いて止むことがない。
多くを言っても正しく語り切ることはできない。そうであるなら適度に語っておくべきであろう。「谷神は死ぬことはない」とされている。つまり「谷神」は「玄牝」といわるものなのである。「玄牝の門」は「天地の根」とされている。それはぐにゃぐにゃしていて(綿綿)あるのかないのか分からないようであるが、その働きは尽きることがない。
天地は永遠である。つまり天地は長く存することができるということである。そうであるのは天地が自分の意思で生まれているのではないからである。これと同じく聖人も自分でどうこうしようとはしないが、率先した働きをすることができている。つまりそれは無私であるからである。
無私であるからこそ自分が自分で居ることができているのである。上善は水のようである。水は善く万物を利することができている。また争うこともなく、人々の嫌うところにでも存している。こうしたところがあるので水の様子は道に近いとされるのである。善地に居れば【「善地に居る」とは聖人が善なる地に居るということであり、水が善地にあるということではない】心は善となる。淵にあれば善仁であることができる。善なることを言えば政治は善くなる。政治が善くあれば、善へと転じる時が始まる。つまり政治における善とはあらゆる人が争わないで居られるということであり、不適切なことが生じないということである。
あえて満たそうとするようなことはしないに限る。磨いて鋭くしてしまうと折れやすくなってしまう。金や玉が部屋いっぱいになれば盗まれてしまいやすくなる。高い位を得て驕り高ぶると罪を負わされることになるかもしれない。功なり名を遂げても表に出ないのが天の道である。
魄(からだ)を休めたり働かせたりするのは「一」を抱いて離れることがないようでなければならない。専ら気は柔らかにして「嬰児」のようであるべきである。よけいなことをせずに「玄」を感じていれば間違いはない。民を愛して国を治めるのは「無為」でなければならない。天の門が開いたり閉じたりするのを知ろうとするのであればは自らは「雌(受動的)」でなければならない。あらゆることを知ろうとするなら、あらかじめ知識を持っていない方が良い【「嬰児」のようであれば間違うことはない。つまり間違った理解をすることもないのである。一般に「知者は待たず(よく知る者は率先して知識を求めている)」というが、こうした状況では本当のことを知ることができないのではないかと思う。禅では「何もしないで行け」とか「真っ白な絹のようであれ」といわれているが、そうすべきであろう】。ものが生まれたり、育ったりする。生まれるのは有為ではない。育つのは自然である。これを「玄徳」と称する。
【「善地に居る」とは聖人が善なる地に居るということであり、水が善地にあるということではない】
【「嬰児」のようであれば間違うことはない。つまり間違った理解をすることもないのである。一般に「知者は待たず」というが、こうした状況では本当のことを知ることができないのではないかと思う。禅では「何もしないで行け」とか「真っ白な絹のようであれ」といわれているが、そういうことであろう】