道徳武芸研究 文と武の鉄布衫〜排打功の真義〜
道徳武芸研究 文と武の鉄布衫〜排打功の真義〜
武術には相手の攻撃を避ける方法があると同時に、その攻撃が当たってしまった時に対処する方法も考えられている。勿論これは中国武術だけに限るものではなく、あらゆる武術に一応はそうした方法が用意されているといえよう。そうした対処を練る方法を中国武術では排打功という。またこうした功法は鉄布衫(てつふさん)と称される。英語圏ではアイアン・シャツとして知られている。日本でいうならば鎖帷子(くさりかたびら)のイメージであろうか。こうしたことがどうして可能かといえば「運気」によるとされる。「運気」はどうして行うかといえば「呑吐」という呼吸法によるとされている。つまり呼吸により全身に気を巡らせることで打たれ強い「体」を得ようとするわけである。
鉄布衫には文の法と武の法がある。この違いの根本は「呑吐」の違いにある。激しい呼吸で全身の緊張を促すような方法は「武」であり、反対に放鬆を起こさせるのは「文」となる。鉄布衫では攻撃が効くのは内臓に衝撃が及ぶからであると考えるので、ひとつには内臓全般に適度な衝撃を加えて衝撃に慣れさせるということがある。この時に当たった部位を緊張させて衝撃を断とうとするのが「武」の鍛錬で、力を抜いて衝撃を緩和しようとするのが「文」の鍛錬である。これは攻撃が体の表面に当たった時と、その力が更に体の奥に及ぶのにタイムラグがあるのを利用しようとするもので、当てられた時にリラックスをすることで皮膚の感覚でその力の及ぶ角度を察知して、その衝撃の方向を変えて威力を削ごうとするわけである。
「文」の鉄布衫を代表するものとしては太極拳の体当たり(靠)の鍛錬がある。太極拳では背中で互いにぶつかり合ったり、壁に背中で当たったりする。こうすることで内臓に適度な衝撃を与えるのであるが、当たった時に息を吐く。それによって放鬆を起こさせるわけである。太極拳では危機的な状況にあっても放鬆の状態にあるのが「自然」であると考える。往々にして人は危機的状況にあうと緊張して固くなってしまうが、そうすることでより事態を悪くしていると考えるわけである。『荘子』(達生篇)にも酔っ払いは車から落ちてもケガをしないとある。
一方、南派拳術でよく用いられる緊張を用いる「武」の鉄布衫には白鶴拳や空手の「三戦」がある。空手の三戦(サンチン)は白鶴拳と全く同じではないが、白鶴拳の系統を引くことは型の動きからして明らかである。白鶴拳でも空手でも三戦は基本を練るものであり、それぞれの拳で全体の動きの仕組みが異なるために動きに違いが生まれているようである(白鶴拳は両手で、空手は片手を使う)。しかし、共に三戦では「武」の呼吸が用いられる。それによって気力を高めるわけである。空手ではよく指導者が体を叩いている様子が見られるが、これは「運気」ということからは、体の運気の出来ていないところを叩いて全身に気が巡るように促しているとすることができる。この場合は、必ずしも強い打撃に耐えることを第一とするのではなく、全身に気を巡らせることのできる状況を作ることが目的とされる。その結果として強い打撃にも耐えることができるようになるわけである。
「武」の鉄布衫の鍛錬の特徴としては、アドレナリンの喚起がある。アドレナリンを急激に発生させることで打たれても痛みを感じさせない状態にすると同時に意識を一気に戦闘モードに入れるようにする。中国武術では薬法も併せて伝えられることがあるが、その中には覚醒剤のようなものを含む伝承もある。こうしてハイテンションになって戦おうとするわけである。天安門事件の時には人民軍兵士が覚醒剤を使っていたのではないかとされる「噂」がある。人民のための軍隊である人民軍兵士が人民に銃口を向けることに、ひじょうに葛藤があったとされる。そのために覚醒剤のようなものを服用させたともいわれている。また余談ではあるが鄧小平の最晩年には衰弱した鄧が要人と会う時には、銭学森(ロケット工学の権威で気功の超能力的な面・特異効果能の研究をしていた)の率いる気功師軍団の「治療」を受けて瞬時に矍鑠となっていた、とする話もある。一応、表向きは気を入れて元気になったとされているが、実際はどうであろうか。これも何らかの薬物が使われたのではないかと言う人も居る。中国医学では薬法が第一とされており、鍼灸や推那拿(マッサージ)などは薬が効くまでの気休めと考える向きもある。
「武」の鉄布衫で重要なことは戦闘状態に入った時、つまり構えた時にアドレナリンが即座に出るように条件反射を作ることである。よく中国の少林拳で形を行う時に「眼神(眼の輝き)」が重視されるのはアドレナリンが出ている状態で形を練ることが不可欠であるためである。
ちなみに「沖縄武備志」は本来は白鶴拳の伝書であるが、そにある「拳法之大要八句」は鉄布衫の秘訣ということもできるであろう。それには、
「人身は天地と同じ(人身同天地)」
「血脈は日月に似る(血脈似日月)」
とあって、運気により気血が滞りなく全身を巡る状態となることが大切と教えている。そして、
「法は剛柔、呑吐たり(法剛柔呑吐)」
で運気が「剛」と「柔」の呼吸法によることが示される。次いで、こうして好ましい心身の状態が得られれば、
「身は随時、応変し(身隨時應變)」
「手は空に逢(あ)えば則ち入り(手逢空則入)」
「歩は進退、離れ逢う(馬進退離逢)」
となる。身法においては自在な動きが可能となり、手法では相手のスキがあれば攻撃できるようになる。歩法は進退の適切を得て自在に間合いをコントロールできている。そして、
「目は要(もと)めて四向を観て(目要觀四向)」
「耳は能(よ)く八方を聴く(耳能聽八方)」
となるのであり、これはアドレナリンが湧き出して視覚、聴覚が鋭敏になった状態となるわけである。(原文は「馬」進退離逢とあるが、これは「歩」進退離逢とするのが適当であろう。閩南語では「馬」はポイで「歩」のポと発音する。これは音が近いので誤記したものと思われる)。
ちなみに白鶴拳には「剛」「柔」の三戦があり、門派によって違いがある。白鶴拳の震身をよく練ろうとすれば「柔」である方が良いのかもしれない。
重要なことはいくら鍛えても打たれれば一定のダメージを受けてしまう、ということである。あまりに過度に体を打って鍛えるとかえって健康被害が出てしまうので注意を要する。鉄布衫などの排打功の第一は気血の円滑な循環を促すことにある。充分、留意されるべきであろう。