道徳武芸研究 映画「武蔵ーむさしー」武術評
道徳武芸研究 映画「武蔵ーむさしー」武術評
映画「武蔵ーむさしー」は2019年に公開された映画で「史実に基づいて」製作されたといわれていた。ただ当時は「史実」といっても、特段に新しい史料が発見されて製作されたわけでもないので、これをして「史実」としてしまうことについては批判的な意見もあったようである。ただこの映画は武術史的に見れば「教科書」にしても良い程、優れた内容を有している。武術的な理論を映画に反映したものとしてはブルース・リーの「ドラゴンへの道」や「死亡遊戯」などがあるが演出や提示される理論の緻密さからいっても「武蔵」は隔絶しているといえる。おそらく日本映画の剣の技術を描いたものではほぼ唯一で最高の作品といえるであろう。
「武蔵」が剣術を描いて最高であるというのは戦術(技)ばかりではなく戦略(光や相手の意識、事前に太刀筋を知るなど)をも含めて描いている点である。実戦において最も重要なことは相手の意識を混乱させることである。これがスポーツとは決定的に違う点である。それは「勝った状態で試合に臨む」といわれることもある。よく知られたところでは飯篠長威斎の「熊笹の教え」があるが、それは試合を申し込んだ相手の前で熊笹の上に乗って座って見せた、というもので、そうした不可思議な力を見せることで相手の気持ちを挫いたわけである。こうした相手の気持ちを萎えさせる手法は多くあったようで、近世以前の剣術では欠くことのできないものとされていた。また、この映画では二天一流の奥義をも示されている。二天一流は二刀も一刀の如くに使える、ということであるが、それを可能とするのは「柔術の間合いで剣を使う」からである。現在の二天一流の形を見て「どこが優れているのか分からない」という感想を抱く武術経験者も多いようであるが、それは現在の二天一流が全く剣の間合いになっていているからである。映画では二刀を使う時に相手を投げるシーンもわざわざ用意されている。これは武蔵の父親の無二斎が十手術をよくしていたこととも符合する。
映画でも吉岡家との試合は吉岡清十郎から始められる。この時、清十郎は「一の太刀」を使っている。これは甲冑剣術の時代のもので塚原卜伝が編み出したとされる奥義の技である。ちなみに現在「一の太刀」がどのようなものであったのかは諸説あるのであるが、映画で示されたような脇の下を切る方法もそのひとつとされている。通常、剣を使って切るのは上から切り下ろすことになるが、甲冑を着ていれば上から切ることはほぼ不可能である。そこで甲冑で防御されていない部分である脇の下あたりを切るのであるが、それにはひと工夫が必要で下から切らなければならない。この下から脇の下を切る方法を考案したのが卜伝であろうと個人的には考えている。清十郎がどのような技を使ったのかは分からないが、時代からして甲冑時代の剣術であったであろうから、こうした「一の太刀」が用いられていた可能性は大いにあるわけである。
武蔵と清十郎との試合は、ほぼ相打ちになり、武蔵は清十郎の肩を打ち、清十郎は脇の下を切っている。甲冑を着ていれば肩を切られても問題はないが、そうではないので清十郎は大きなダメージを受ける。この試合が行われたのは関ケ原の戦いの後であり、剣術も甲冑の時代から着物の時代(素肌武術)へと移りつつあった。武蔵が使ったもは新しい剣術であり、それはより自由な攻撃を可能とするものであった。吉岡の剣術は時代遅れであったので負けたということでもある。
また武蔵が木剣を持って来たので、名門吉岡家のプライドを持つ清十郎は安易に木剣をとって試合をしてしまう。もし、これが真剣であったならば映画では清十郎が一瞬早く武蔵の脇を打っていたとしているから、その時点で武蔵が肩を打つより一瞬早く動きを制することができたであろう。またこれが「一の太刀」の間合いでもある。しかし木剣では相手の脇に触れるだけに終わってしまい「相打ち」に近いこの「一の太刀」のタイミングが、かえって絶対的な不利になったわけである。武蔵があえて木剣を選んだのはこうした吉岡側が甲冑時代の剣術を使うことを知っていたからとも考えられる。
次は吉岡伝七郎との試合である。この時、伝七郎は武蔵の太刀筋を清十郎から聞いて対策を考えて来るが、武蔵は今度は真剣での勝負を求める。武蔵は入身を用いて相手の木剣を取り上げる。ここで武蔵の剣術のベースに柔術があることが暗示される。そして武蔵は四方の篝火の半分を打倒して、一方だけに光が当たるようにする。こうして相手の刀を光らせることで自分が優位に戦えるようにする。
最後は亦七郎を相手とするのであるが、この時に二刀を使うことになる。前日、武蔵は刀に細工をするシーンがある。これは通常の大刀を改造してやや短くしているシーンのようで左右の刀に大きな長さの違いがないということになっている。これは中国武術の双剣や双刀と同じで両手で二刀を使う時には左右が大きく違っていると極めて扱い難い。二刀を使い難いのはひとつには大小の刀のままであるからで、そうであると左右のバランスが取り難くなる。二刀を使うシーンでは、相手の体を撫でる感じで切っているが、二刀であれば当然であろう。柔術の間合いで二刀を使うので一刀両断という程、深く切ることはできないが、相手の生死を決するくらいのダメージを与えることは十分に可能であると思われる。
吉岡家との試合の後は佐々木小次郎との試合に向けて「間合い」が説かれる。佐々木小次郎の剣術は富田勢源の小太刀の術の相手をしたことから生まれたとされている。小太刀は相手の間合いに入ることで、その武器の長さの利点を消してしまうことに優位性がある。勢源が長い刀を相手にしたのは見た目の派手さの演出であろう。間合いに入ってしまえば、かえって長い刀の方が制しやすい。そこで小次郎が考えたのは長い刀(太刀)の間合いを越えて、相手が間合いを詰める前に返す刀で切ってしまう技術(燕返し)であった。これは映画では「形」と「本気(実戦)」ということで違いが示されている。同じことは宝蔵院流と武蔵の試合でも武蔵が小太刀を使って槍の間合いを越えることで容易に相手を制することが示されている。
そして最後の巌流島での試合となるが、この時の戦略は武蔵は海を背にして波の光で小次郎の目を眩ませる。また小太刀を構えることで相手に長年、稽古をして来た小太刀の間合いに心身をセットさせて、いきなり櫂の「木剣」を取り出す。こうして戦う時には剣の間合いにして小次郎を撹乱するわけである。そうすることで優位に立った武蔵は相手を打つことはできたが「木剣」であるため致命傷は与えられない。ここで別のストーリーが介入して小次郎は殺されてしまう。この試合は間合いの問題に集約されて演出されているが、結末は技術的にはやや分かり難いものとなっている。
「武蔵」の時代は中世の甲冑剣術から近世の素肌剣術へと移り変わる時であり、近世になって技術が体系化される前の時代でもあった。小太刀や十手術などの柔術系の技法は「柔術」としてまとめられ、一刀流のような剣術系のものはそのまま「剣術」となった。また新陰流は柔術と剣術の間にあるものであり、ここからは打ち合って相手を破る(殺人剣)のではなく、間合いで相手を制するといった「活人剣」の「思想」が生まれた。ちなみに吉岡家は武蔵との試合に敗れてからは染色業していたとされる。今でも吉岡染は「染司よしおか」の吉岡家に伝承されているが、これは剣術の吉岡家子孫ではないらしい。