道徳武芸研究 老子と合気道〜「慈」と「戦則勝」〜
道徳武芸研究 老子と合気道〜「慈」と「戦則勝」〜 『老子』第六十七章には「慈(いつくしみ)」をして対すれば「戦えば則(すなわ)ち勝(まさ)る」「守れば則ち固し」としている。ただ「戦」については「勝(か)つ」と読まれることもある。ではなぜ「慈」をして相手に対すれば「勝」や「固」を得ることができるのか。それはまた「天まさにこれを救う」とあることで分かるのであるが「慈」を以て相手に対すれば、天の助けによって「勝」や「固」を得ることができるとしている。しかし、これは現実的ではあるまい。また『老子』では、これに続けて「慈をもってこれを衛(まも)る」ともある。「慈」をして対すれば「天」の助けがあって、その人を衛ってくれる、ということである。『老子』では「慈」は「天」の働きのひとつの表現であるとする。こうした文脈の中で以上のようなことが述べられているわけである。他に「天」の働きとしては「倹」や「先とならない」があるとする。「慈」の実践は「天」の働きそのものであるから、そこでは自ずから「天」の働きが見られるわけである。こうしたロジックが成り立つとしても、例えば実際に「慈」をして対するのはイメージとしては無抵抗であるような対し方であると思われる。しかし、そうしたことでは相手を制することも、自分を衛ることもできないことは明らかであろう。 同じ章の前段で繰り返し老子が説いているのは「天」の働きは「大」である、ということである。そして、ただ「大」といっても単なる「大」ではないと言う。それは似て非なるものであるとするわけである。そうなると「慈」も単なる「慈」ではないということになる。単に相手に無抵抗であるような対し方ではない、ということである。老子が「天」の働きを「慈」であるとするのは、天と地が交わって生成が為されており、またオス・メスが交わって生成が為されていることを根拠としている。このような「和合」の働きが根本にあると考えるのであり「慈」もそのような「和合」の働きをいうものとして示されている。攻撃をして来る相手に単なる「慈」を以て接しても「和合」は生まれない。そうなると、それは「天」の働きではないことになる。「天」の働きとしての「慈」は相手と「和合」するところにあるからである。それは具体的にはどのようにすれば可能なのであろうか。一般的に攻撃をして来る相手には、それを遮って防御...