道徳武芸研究 「力を使わない武術」とは何か
道徳武芸研究 「力を使わない武術」とは何か
近年は特に「力を使わない武術」がよく提唱されている。およそ攻防においてあえて力を使わないことに過度にこだわる必要もないように思われるが、どうも風潮としてはそうではないようである。また数年前あたりまでは「力を使わない武術」での上達法は一個のブームが三年くらいは続いていたように思うが、昨今は一年に満たない内に消えてしまって、また新しいものが注目されているようである。中国武術では武術を構成するものとして「形、功、法」があるとする。「力を使わない武術」での眼目はここでいう「法」を強調するところにある。ちなみに「形」は「技」とも称されるもので、「功」は体力などの運動能力のこと、「法」は心身の使い方である。昨今の「力を使わない武術」が短命であるのはもっぱら「法」へ偏重して「形」や「功」を顧みることがないからに他なるまい。「法」を知れば一見して心身の使い方が上達したように感じられるが、それに「形」や「功」が付いて来なければ実戦で使うことは難しい。
現在の日本では武術において「力を使わない」ことが重視されているのは先にも触れた通りであるが、かつてはそうでない時代もあった。1970年あたりの極真会カラテがブームの頃には「パワーカラテ」として筋力トレーニングが重視されていた。これは「功」を重んじたということができるであろう。70年代は高度経済成長が終わって、その間に醸成されたさまざまな社会矛盾が表面化した時代であった。こうした混沌とした時代に空手の「道」といった曖昧なものではなく「パワー(筋力)」のようなひじょうに分かりやすいものを方法論として提示したところに多くの人の耳目を集める要因があったのかもしれない。ちなみに「形」としては、ある種の武術ロマンとして「秘伝の技」なるものがある。80年代に始まる中国武術ブームでは「八極拳の秘伝」など「形」への関心がひとつの中心であったことは間違いない。これは当時のブームを牽引した松田隆智が希少な形や流派を好むという嗜好性を持っていたことも関係しているように思う。一般的には広く認められているものは「価値」があるから認めれているのであり、そうでないものは「価値」が認められてないから広まっていないと考えるのが通常であるが、あえてそうではないところに「価値」を見出そうとする人も居る。ただこうした選択をするのには注意が必要で安易に「希少」であること自体に「価値」を見出さないようにすることが大切である。
さて「力を使わない武術」で重視されている「法」であるが、そのベースにあるのは「感覚力」である。およそ「法」は「形」と「功」をつなぐ働きがあり、心身の感覚を鋭敏に高めることで「功=体力」と「形=技」とをロスなく結びつけることが可能となる。つまり微細な感覚で力を使い、技と動作させることで技の持つ原理を最大限に発揮することができるようになるわけである。そうであるから「功」や「技」を知っていなければ実際には大きな効力を得ることはできないわけである。「法」は武術界では「口伝」「奥義」としてそれを得ることで飛躍的な効果を得ることができると信じられて来た。これが実際に示されたのが巨人軍のV9であった。巨人がV9を成し遂げることができたのはアル・キャンバニスの『ドジャーズの戦法』を監督の川上哲治が取り入れたからであるとされている。武術でいえば「秘伝書」を得ていたという感じであろうか。ただ実際は本そのものは公刊されていたので「秘伝」ではないのであるが、その真の価値に気がついて実践したのは川上だけであったということである。このように「法」を得ることの効果が絶大であることは確かなのであるが、しかしそれによって大きな効果が得られたのはやはり巨人軍という「功」と「形」を高度に習得した集団があったためなのである。
「形、功、法」の他に武術のシステムを知る見方に「骨、筋、髄」がある。これは「易骨=形」「易筋=功」「洗髄=法」としてそれぞれを磨いて変化させることの重要性を言うものである。「易骨」は形を知ることで基本的な体力を養う。そして「易筋」でその使い方を会得する。これは共に主として形を通して行われるので「易骨」と「易筋」をあわせて「易筋」とすることもある。「筋」とは筋肉のことであり、また皮膚感覚のことでもある。一方、「髄」は骨の奥、体の奥にあるものというイメージで、これが「骨」と「筋」のベースをなしていると考える。現代的にいえば「意識」のことである。太極拳では太極拳の練功で練られた気は経穴を通して「髄」に入るというが、これは「意識」の変化に及ぶという意味である。他のスポーツでも野球を長くやっているとそれなりの顔立ちになるし、音楽や芸能でもそれぞれに独特の雰囲気が見られるものである。これは心身がそれぞれの分野に適応するよう養われたからである。重要なことは「骨、筋、髄」のどれをも欠いてはならないということである。加えて、それぞれのシステムによってこれらを適当にバランスをもって練ることも欠かせない。こうしたことがうまく行って始めて高い境地に達することが可能となるわけである。
かつて植芝盛平は「糠三合持てれば合気道はできる」としていた。しかし盛平自身はひじょうな力持ちであり頑健な体を持っていた。盛平が言うのは体力がなくても合気道を始めることはできる、ということで、それは合気道には健康法としての側面のあることを強調するために述べた言葉でもあった。晩年の盛平は合気道の武術性より宗教性の方に関心を持っていたようであるが、特に戦後はそれを宗教=神道ではなく「健康法」として「心身統一」の方法として説くようになった。ただこれはオーガナイザーとして優れた手腕を持っていた吉祥丸が宗教的な部分を強調することをあえてしなかったという側面もあるように思われる。「糠三合」という場合でも「糠三合」を持つことのできる「功」があれば、身法としての「形」や心法としての「法=理念」を学ぶことは可能であるというわけで、決して「力=功」を否定しているわけではないことには留意しておかなければなるまい。
「力を使わない武術」で「法」に無限の可能性を見るのは、年老いた名工が優れた作品を生み出したり、高齢の武術家が技の冴えを見えせたりすることがあると思われるが、こうした名人たちは若年の頃に高い「功」を得ており、それが年老いて落ちて行ってもその分野に限れば一般の人を凌ぐ体力や感覚力を有しているからである。けっして「法」だけでそうした高度なレベルのパフォーマンスができるわけではない。昨今は「法」だけで、ある種の「秘訣」を知るだけで高度なパフォーマンスが可能であるかように説かれる風潮があるが、これは正しくない。実際にいろいろな上達法のほとんどが早々に顧みられなくなっている。「形、功、法」あるいは「骨、筋、髄」これらを欠くことなく適切なバランスで練ることを忘れては武術の内的な部分を探求するにしても、外的な部分を求めるにしても決してあるべき境地に到達することはできないのである。