宋常星『太上道徳経講義』(60ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(60ー5)

鬼神の不可思議さが人々を傷つけることがないように、聖人も人々を傷つけることがない。

ここで述べられているのも、これまでのことと同じである。始めには不可思議な働きをすることのない「鬼」は民を傷つけることはない、ということが述べられている。不可思議そのものが民を傷つけるのではない(それは自然にあるだけのものである。それが何らかの解釈を加えられることで弊害が生まれる)。また聖人も(同様に自然にあるだけなので)民を傷つけることはないわけである。そうであるから不可思議さが民を傷つけないというのは、不可思議さがただ不可思議であることに留まっているところにおいてそう言えるのである。それは自然のままであるから天地、陰陽の正しきを得ている中にある、ということが出来よう。聖の聖たる所以(ゆえん)は天の正しい「理」を得ているからである。「神」は正しい気であり、それを天下の民を正しく導いている。聖人は正しい「理」をして天下に教えを示す。天地の正しい気は聖人の心を養ってきたものであり、聖人の示す正しい「理」は、全く「神」の徳に符合したものなのである。そうであるから、それをして民を養い物事に接する。聖人は無為をして民を導くのである。そうして国を護り民を大切にする。「神」の不可思議さとしては計り知れない陰陽の変化がある。「神」の神気と同様の気は聖人の正しい「理」においてはすべからく働いている。そこにおいて民は正しく導かれる。聖人の道は、あらゆる存在をして正しい「理」へと導くのである。そうであるから聖人の心は民を傷つけることがないのである。これはよく考えられるべきことであろう。民の心を傷つけることがないのが聖人の心であり、それは「鬼」や「神」の心と等しいものでもある。それは聖人の徳と等しいのであるから、どうして「鬼」や「神」が民を傷つけるようなことがあるであろうか。「鬼」「神」と聖人は共に民を傷つけることはない。陰陽を共に得て理と気は適切に交わっている。そうしたところでは天下、国家が正しく治まらないことはない。天下の民で不安を覚えるような者は全く居ない。ここでの「鬼神の不可思議さが人々を傷つけることがないように、聖人も人々を傷つけることがない」とはこのようなことである。


〈奥義伝開〉武術で見られる「触れずに倒す」というような現象も、ただ見るだけで終わってしまえば何らの問題もない。大体、武術に関心のない人はそうであり、数分後にはそうしたパフォーマンスを見たことも忘れてしまうであろう。しかし合理的な考え方の出来ない人は「実戦にも使えるかもしれない」と思ってしまう。また鬼神がいくら不可思議なことを起こしたとしても、それ自体は何らの問題はない。死んだ人が復活しても、それに特別な興味を持たなければ、ただそれだけのことである。しかし、ここに何らかの「意義」を見出そうとすると「迷信」に陥ることとなり「弊害」が生まれてしまう。老子は常に「道=合理性」の追究を重視しており、その中で理解できないことに不合理な解釈を加えてはならないとするのである。


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