宋常星『太上道徳経講義』(60ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(60ー4)

鬼神が不可思議でなくなる、というのは、その不可思議さが人々を傷つけることがなくなる、ということである。

ここでは前のことに、さらに説明を加えている。始めに述べられているのは、つまりは鬼神は不可思議な存在ではない、ということである。それは一般的に考えられている不可思議な「鬼」や「神」とは違っている。つまり、それらは天の不可思議(神)、地の不可思議(鬼)として本来的には人々に福をもたらすものなのであり、その働きによって民の徳を失わさせることの無いものなのである。つまり「不可思議」であるもの自体が人を傷つけることはないのである。「不可思議」であるものがそうであるとしたら、どうして「鬼」であるというだけで人を傷つける、ということになるであろうか。つまり鬼神も(天地の間に存在しているのであるから)それぞれは正しい働きの中に居るのであり、それぞれの鬼神は天の「理」を得ているのである。そうであるからここに「鬼神が不可思議でなくなる、というのは、その不可思議さが人々を傷つけることがなくなる、ということである」と述べられている。「鬼神」というものを考えてみるに、それは「鬼」と「神」の「(陰陽)二気の良能(優れた働き)」であろう。「鬼」の道とは「屈して伸びることがない(表に現れない)」つまり陰の道であり鬼は「陰気の正」を得ている。一方「神」の道とは「伸びて屈することがない(表に出てくるもの)」のであるから陽の道で、そこでは「陽気の正」が得られていると言えよう。「鬼」は「神」ではないのであるから、そこには「鬼の理」がある。「神」が民を傷つけることがないのは「神」が「神の理」を得ているからである。そうであるから「鬼」と「神」とは違っており、それぞれに「鬼」は鬼の道、「神」には神の道がある。「鬼」の道は「屈(表に出ない)」にあるのであるから、それは「神」のように現れることのない。「神」が民を傷つけないと分かるのは「神」の道が「伸(表に出る)」にあるからである。そのように「神」は「神」として天の「理」を得ているので民を傷つけることはないのである。「神」も「鬼」もそれぞれにあるべきところに居り、行うべきことを行っている。それぞれに「理」があるわけである。それぞれに「道」があるわけである。そうであるから聖なる君主も「道(天の「理」)」をして天下に臨んでいる。もし天下に臨む者が欲望のままに行動し、道に背き、徳を失っていたならば、あらゆる天地の陰陽の気は和しており、例え鬼神が本来的には民の心を傷つけるものではないとしても、「鬼」からは混乱がもたらされ「神」からは憎悪がもたらされてしまうことになろう。しかし本来的には「鬼」も「神」も天の「理」を得て存在しているのであるから何らかの機会を得て民を傷つけるようなことを実行しようとはしないのであり、それはまったく明らかなことである。「鬼」は「不可思議」なものであるが「不可思議」であるからと言って、それで民を傷つけることはない。民を害する「鬼」や「神」は本来的なあり方を失っているものである。そうであるから「鬼」や「神」以外でも、あらゆるものはすべからく道を外れては天下に臨むことはできないのである。そうでなければ(天の「理」が実行されないので)「鬼」や「神」においても害が生ずることになる。


〈奥義伝開〉宋常星は「鬼神」を「鬼」と「神」に分けて説明しているのであるが、これらは共に「道」において存しているのであるから、天の「理」に違うものではない、とする。そうであるなら「鬼」も「神」と同様に悪い働きをしないのであり、悪い働きをしているのは本来あるべきあり方から外れていると考えるのである。これは人間でも同じで、人の心の根源である「性」は善なるものと考える。しかし人人は鬼神の「不可思議」に私意や欲望を持ち込んで解釈をしてしまう。ここに「迷信」が生まれて弊害となる。つまり余計なものがあることを信じなければ、余計は弊害も生まれないわけである。不可思議は不可思議のままにしておけば良いのである。


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