宋常星『太上道徳経講義』(60ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(60ー3)
道によって天下に臨んだならば、鬼神も不可思議ではなくなる。
ここで述べられているのも先にあった「大きな国を治めるのは、小さな魚を煮る(あまり動かしたりしない)ようにする」と同じで、余計なことや変わったことをするべきではない、ということである。道を得ている聖なる君主は、道をして天下に臨むのであるが「臨む」とは関係を持つということである。そうであるから国に臨むのは民と関係を持って統治をするということになる。天地の陰陽を考えてみるに陰陽はまさに道そのものである。そして陰陽は「鬼」「神」として、この世でもあの世でも現れているが、それも道の中に存している。君臣、父子もまた道の中にある。民の心もそうである。これらはそれぞれが、その本質(性)にあっては道のままに正しくある。つまり、それぞれが道の「理」を得ているのである。それが心に働いて、それをして行動をする。そうであればあらゆることが自然と一体であるということになろう。これをして身を修め、これをして国を治めれば、天下に自然の「理」が行われることになる。陰陽や鬼神が自然の「理」の正しき中にあれば、天下、国家がそれぞれに正しい「理」を有していれば、これらは正しくあることができる。そうなれば天下の民も、その本質(性)の正しさのままにあることができるのであり、天下の事象も適切に生じることになろう。物事を行う時もその行動においても、聖人の道も自然の「理」のままであれば、それがそのまま道の実践となる。「鬼」や「神」が吉凶を告げることにおいて、聖人の道によるのであれば、それは正しいものとなろう。そうなれば「鬼」や「神」は当然のことを述べるだけである。当たり前のことを言うだけなので、それは聖人が道をして天下に臨んでいるのと変わりがない。陰陽はそれぞれが適切に存しているところでは、鬼神の不可思議さが表に出ることはない。鬼神の不可思議さが示されるのは正しいあり方ではないし意義のあることでもない。正しくあるとは道にあるからであり、聖なる君主は道をして天下に臨むのである。それは大いなる道の機に応じて統治をすることであって道のままであるということである。もし、そうでなければ大いなる道をして天下に臨むことにはならない。陰陽は適切に働くことなく、調和を欠き、邪なことも、正しいことも乱れ現れることになろう。小人の道は日を経るごとに余計なことをしてしまうものである。聖人の道は日を経るごとに余計なことをしなくなるものである。そうなれば道にある君主は統治者としての存在を薄くし、民はその存在を重んじられるようになる。臣下が君子のかってな命令をただ実行して統治をするような社会であれば、鬼神もその働きに正しきを得ることはなかろう。嘘や策略がいたるところに蔓延して「鬼」や「神」への盲信がなされてしまうことであろう。これでは天下に道をして臨むことにはならない。これが「道によって天下に臨んだならば、鬼神も不可思議ではなくなる」ということである。
(注 宋常星は鬼神を鬼と神とに分けて考えている。「鬼」は「陰」で好ましくないもの。「神」は「陽」で好ましいものとされるが、これらは全て「道」の中に存しているのであるから本来は「道」と一体であり、共に正しい存在であるとする。)
〈奥義伝開〉「道」とは合理的な考え方のことである。合理的な考え方で社会を見たならば「鬼神」の「迷信」に陥ることはない。これは何も宗教だけではなく、不合理な世論一般にも当てはまることである。こうしたものを容易に信じてしまうのが世の中というもののようであるが、老子は数百年も前から現代にも通じるような「迷信」の広まることの危険性を指摘している。