宋常星『太上道徳経講義』(59ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(59ー7)

「国」に「母」があれば「長久」を得ることができる。これが「深根固蔕」「長生久視」の道と謂われるものである。

ここで述べられているのは、道の徳を養うための工夫の総括である。天の理を修して徳を行うと終始にわたって弊害のないことが述べられている。積徳の聖人を考えてみると天下や国家において、その働きのあるところをあえて求めることがなくても、その働きのないところはない。これは聖人でなければ「国」の全てにその徳の心を及ぼすことはできないのであり、そうした心の働きがあるからこそ聖人なのであって、そうした心の働きのない一般の人とは違っている。そうしたことを言うためにここでは「国」ということがあげられている。つまり「国」においてはその「母」があるのであり「国」の「母」に帰することが重要なのである。大いなる道の実際における「理」は天地の生成にあり、それは万物を養っている。あらゆる物はそうした「理」がなければ自然な生成が生ずることもない。天地は「道」がなければそのままで働くことはない。そうであるから「道」は万物の「母」なのである。聖人はその「徳」を重ねて積んで、全くもってその「道」を実践する。「国」の「母」においても「国」が「長久」であるのは、古今に変わることのない「道」つまり「母」によっているからなのである。そうであるから「『国』に『母』があれば『長久』を得ることができる」ということになる。「長久」とは万世変わることがない、ということである。古今変わらない、ということである。天地共に永遠に存している、ということである。それは永遠に変わることのないものである。そうであるから「長久」である。しかし人はこれが「一」である「道」によっていることを知ることがない。その「一」とはまた「深根固蔕」なのであり、そして「長生久視」であって、その「道」は一切の物事の本源である。本源はこれを「根」という。それは樹木の根のようなもので、根があることでよく枝葉も茂ることができるし「長生」も可能となる。この「根」は「国」の「母」でもある。つまり「国」の「母」とは「根」あるいは「蔕(へた)」のことなのである。花をつけることができているのは「蔕」があるからである。実がなることができるのは「蔕」があるからである。それがあるからこそ花が咲き、実がなることができるし、長く花や実を保つ「長生」も可能となっている。こうしたことを「国」の「母」で例えると「母」は「根」や「蔕」ということになる。「根」や「蔕」といった長く生きる(長生)のもとがなければ、枝葉である「国」も長く存することはできない。「国」の長生きにおいても、それをなすには「長生久視」の「道」を得なければならない。そうでなければ天地の変化するもの(生物)は長生きをすることはできず、変化をしないもの(無生物)のみが長生きをし得ることになる。永遠の如くの時間が経過しても「久視」たるものは変わらないのであり、あらゆるものの先にある。それはに終わりはなく、途切れることもない。そしてそれは全っく「重積徳」によっている。「重積徳」があるからこそ「長生久視」が実現するのである。ここで述べられている「『長生久視の道』と謂われるものである」とあるのは、まさにこうした意味である。この章で述べられていることを考えるに、天の理を修するということが述べているのであり、それが「国」が長く存する(長久)ことにも通じるとしている。そしてその「理」を通して「国」を治める「理」も知ることができるのである。修身の道と「国」を治めることは同じではないが、その「理」にあっては全く等しい。それは人がよく過剰なことをしないことをして根本としているのであり、それによって徳を積み重ねるのである。そうして自身の中の妄想をことごとく克服する。そうしていれば自己の中の天の徳は、早々に本来の状況を取り戻すことができる。「玄牝の門」(第六章)とは、つまり身中の「天地の根」なのである。「谷神は死なない」(同章)というのは、身中の「長生の母」なのである。「玄牝」を守るとは、「深根固蔕」を守るということである。この「谷神(=徳、理、道)」を練ることで、天の理を修することが可能となる。終日途切れることなくこれを練る。それが「重積徳」である。この時、他人も自己も忘れてしまう。それが限りがない(自他に堺が無い)ということである。こうした状態であれば、内的な状況は乱されることなく、私欲や妄想も生まれることがない。また外的なことであっても、俗縁に惑わされることはない。身である「国土」は本来、清浄である。身である「国運」は本来、永遠である。我が本来の心のあり方である「性」は、天と一体であり、心は身の「君主」のようなものである。これを練れば全身が「不生不滅」となる。「道体」が成就される。そして「無極」「無窮」とひとつになる。そうなれば必ず「長生久視」の「道」は成就されることであろう。


〈奥義伝開〉「深根固蔕」は「根を深くし、蔕(へた)を固める」ことである。つまり「根」は茎と地を、「蔕」は茎と実、花をつなぐところであるから、そこを安定強化することの重要性を言っているのである。太極拳では、これを「命の源頭(げんとう みなもとの意)」を固めることとして、それが「腰間」にあると教えている。つまり足腰である。足腰を鍛えることで元気が得られるというのである。また「長生久視」は「長く生きて、久しく視(やしな)う」ということで、養生をして長生きをすることを言っている。道家では「不老不死」を目的としているように誤解されているが、「長生久視」と「不老不死」は同じではない。「長生久視」は「道」のままに生涯を生き切るということで途中で私欲などによって中断されない生き方をいう。そうであるから必ずしも多く年齢を重ねることを目的とはしていない。実際に神仙道でも「不老不死」は地仙として最も低いレベルに位置している。一方、天仙は「道」を得た人とされて、そこでは肉体の有無は超越しているという。つまり「道」を得た「天仙」は肉体が滅びても天地と一体となっているのであるから生き続けている、というのである。そのため亡くなったことを「尸解」と称する。死んで肉体を離れただけというわけである。「尸(しかばね)を解く」とは死体=肉体からの開放のことである。こうして「天仙」はいろいろな時代や地域に出現する。今でも「呂洞賓に出会った」などという話は実際に耳にするし、太上老君かた秘訣を授けられたという話もある。またこの類の話が3世紀に書かれた『捜神記』から現代にまで受け継がれているのも興味深いことである。


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