宋常星『太上道徳経講義』(59ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(59ー6)

限りがないところでなければ「国」を設けることができる。

ここで述べられているのは、先のことの繰り返しであり、心の徳のことである。それはつまりは心の徳は「限りがない」ということである。「重積徳」はこれ以上のものはないのであり、その限りを知ることのできないものでもある。このように徳を積めば徳が心にあることの確信が深まるであろう。徳の他には、他に心にあるものはない。それ以外に心には無いのである。心に徳があれば天下の人を感化することができる。それは天にある日月のようなものであり、その光の及ばないところはない。あらゆるところを照らしている。天下、国家にあっても、道の徳に服さない人はいないし、それを止めることもできない。阻止することも不可能なのである。あらゆるところに徳は及んで行く。ここにある「限りがないところでなければ『国』を設けることができる」とはこのような意味になる。


〈奥義伝開〉過剰なことはしない(嗇)から、先ずは相手の立場になって考える(早服)、そして徳をとにかく実践する(重積徳)といったことは内面に関する事柄であるが、ここからは外面的なことが述べられている。「国」は自然には生まれないし、限りを作ることで生まれる。そうであるから根本的に「徳」の世界と相反する存在ということになる。しかし、こうした有為を全く排除することができないのが人間の世界でもある。衣食住において自然のままであることはできない。そうした中にあって、どのように「道」は実践されるべきなのか。一方で「国」を作ることは人々が合理的に生きていくために便利なツールでもある。ホモ・サピエンスは集団を作ることで、ネアンデルタール人との生存競争に打ち勝つことができたとされている。「国」の形成もそうしたホモ・サピエンスの本能によるものであるから、それは全く不自然であるとすることもできない。そうしたこともあって老子はこうした生きるための「知恵」は抑制的であらねばならない(嗇)、というに留めている。


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