道徳武芸研究 一霊四魂と三元八力〜合気道と古神道〜(8)

 道徳武芸研究 一霊四魂と三元八力〜合気道と古神道〜(8)

一霊四魂三元八力は、一霊四魂が「霊」で、三元八力が「体」とすることもできよう。そして「霊」は「禊」であり、「体」は「引力」そしてそれらをつなぐのが「呼吸力」ということになろうか。呼吸力は霊的には「気吹」、体的には「息吹」とすることもできるであろう(ともに「いぶき」)。そして「気吹吹」と「息吹」とがひとつになる時に「呼吸力」が生まれるとすることができるであろう。また四魂において「禊」をいうならば「荒魂」「奇魂」がそれに当たる。つまり非日常な時間と空間において既成の秩序は解体されて新たな秩序が構築されるわけである。これは合気道などの稽古の時ということができるであろう。こうした非日常の時間と空間を持つことで一旦、日常が断ち切られ、新たな始まりを迎えることができるのである。武術の稽古により荒魂や奇魂を発動させ、また日常の和魂や幸魂の世界へと帰って行く。そうすることで円滑な生活を送ることができるという考え方は古代の日本人が持っていたものでもある。国学は当初は日本固有の倫理観は儒教、仏教の渡来以前にあると考えて『古事記』や『日本書紀』などから儒教や仏教に説かれていない倫理観を探していたのであるが、それを見出すことができなかった。およそ人の倫理観は似たようなものであるのに、それをあえて儒教や仏教以外としたために見るべき倫理観を見出し得なかったのである。そこで本居宣長などは「道」なき「道」が日本の道であるとして特定の倫理観のないのが日本の特色であるとした。しかし、そこで唯一それらしいのが「禊」であると考えたのであった。これは「浄化」というだけで何をもって「浄化」とするのかの厳密な規定はない(古代では死の穢からの浄化が基本であった)が、「禊」は「生命力の回復=新たな秩序の回復」であるわけで、そうると「合気道は大いなる健康法」と教えていた植芝盛平の言葉も頷けるものがある。


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