道徳武芸研究 一霊四魂と三元八力〜合気道と古神道〜(5)

 道徳武芸研究 一霊四魂と三元八力〜合気道と古神道〜(5)

三元八力そのものは神話には出ていないのであるが、この発想の元になったのは天地が開ける時に生じた「宇比地邇の神(うひぢにのかみ)、須比智邇の神(すひぢにのかみ)」「角杙の神(つぬぐいのかみ)、活杙の神(いくぐいのかみ)」「意富斗能地の神(おおとのぢのかみ)、大斗乃弁の神(おおとのべのかみ)」「淤母陀琉の神(おもだるのかみ)、阿夜訶志古泥の神(あやかしこねのかみ)」の八神と伊邪那岐の神が生んだ天照大神、月読の命(つくよみのみこと)と建速須佐之男の命(たけはやすさのおのみこと)であると考えられる。宇比地邇の神、須比智邇の神などはいずれも男女神と考えられるので、ここに対極にあって引き合う力としての対照力を認めることができる。ただ宇比地邇の神、須比智邇の神などがどのようなことを示す神であるのかは明確ではない。おおよそを言うなら「宇比地邇の神、須比智邇の神」は「地=砂」のことで、そこに「角杙の神、活杙の神」つまり神の依代(よりしろ)としての「杙」が生まれた。古代の日本では神は尖った棒状のものの先に降臨すると考えられていた(雷が木に落ちるイメージ)。そうなると「意富斗能地の神、大斗乃弁の神」の「斗」は「門」のことで祭祀の場とその他の土地が「門(後の鳥居)」によって区別されるようになる。そして最後の「淤母陀琉の神」は「面」は『古事記』に四国のことを「身一つにして面(おも)四つあり」とあるように「国」のことで一定の地域が一定の神の統治するところとして「国」と認識されるようになることである。そしてそれは同時に「阿夜訶志古泥の神」、つまり「畏(かしこ)」きもの支配する地域であり、これが後には「国魂」と称されるものである。これをまとめれば、土地があって、そこが特殊な場(神の降臨するところ)として意識され、神を祀る集団が生まれ、その地域が「国」として意識された、と解釈することができよう。これは物理的な土地があって、それが「地域」と認識されて占有が生まれ、集団が生まれる、という過程でもある。


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