道徳武芸研究 「道芸」修行試論〜肥田春充の場合〜(4)
道徳武芸研究 「道芸」修行試論〜肥田春充の場合〜(4)
肥田春充は「聖中心」を発見したことで「自然」に姿勢が変化をした。これは無為自然による「技」の誕生と同じプロセスである。先に「無為自然」の感覚があって、それが動きとして出てきたのが「技」なのであるから、「無為自然」が体得されれば固定した技を覚えておく必要はなくなる。たとえ、それが「技」として示されているものときわめて近いものであっても構わない。無為の技と有為の「技」は一見して同じようであってもその内実は全く異なっている。かつて鄭曼青は太極拳の初めのいくつかを教えただけの人に後年、遭ったら正しく全ての套路を習得できていた、とする経験をしたという。その時、鄭曼青は「誰に習ったのですか」と聞いたら「本を見て習得しました。わたしの動きは間違いのないものですか」と聞かれた。その人物は太極拳のいくつかの技を練ることで「無為自然」を体得したわけである。その上で形としての動きをとれば、それはひじょうに正確な太極拳になっていた、のは当然であろう。ここで重要なのは「(正確な太極拳に)なっていた」という点であり、これが「無為自然」であるということなのである。「道芸」の修行において「技」に執着してはならない。それはあくまで無為自然を得るための方途であり、「逆修」の方法であるから最後に「技」は「捨てられる」ことになる。それがたとえ初めに習った動きと同じような動きであっても、無為を得てからの技においては、有為により学んだ「技」は完全に捨てられているのである。