道徳武芸研究 「道芸」修行試論〜肥田春充の場合〜(2)
道徳武芸研究 「道芸」修行試論〜肥田春充の場合〜(2)
普通、人には無為である行為(行動と思考)と有為である行為とが混在している。こうした状態は「自然」であるとすることもできるが、それは本来の自然ではない。「道芸」にあって有為のように見える行為も、それが無為から発せられたものであるならそれは無為自然な行為ということになる。簡単にいえば意識が無為にある時、どのような動きもそれは無為と認められるということである。そうであるから太極拳でも八卦拳でも「静」や「柔」を重視している。「静」や「柔」の状態で発せられる動きが無為自然なものであるからである。王向斉はいろいろな文章を書いているが時には完全に「技」を否定しているが、別な文章では一部を認めていることもある。王向斉も「虚=無為」から発せられる動きを求めていた。その過程で「技」をどのように評価するかに苦慮していたようなのである。それは最も合理的な形を追究して行くと、最後にはもとの形意拳の技に戻ってしまう、ということがあったからのようである。結果として現在の意拳の継承者で形意拳を取り入れている人も少なくない。