宋常星『太上道徳経講義』(57ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(57ー8)

(聖人である)自分は無事であるから民は自ずから富むことになる。

「無事」とは民の力を消耗させないということである。あえて財を得ようとすることもなく、欲望のままに行動することもない。かつての聖なる王は保身を考えることはなかった。人々の農事を妨げることはなかった。そして民の思うようにさせていたのである。そうして民を養うことを考えていた。天下の民は、農事をして食べ、井戸を掘って飲水を確保し、建物を建てて住み、食器を作って使っていれば、家の外には生活に困る人は居らず、家の内にも困難を覚える人は居ないであろう。凍え飢える者は居らず、人々は管弦の楽を楽しむこともできよう。こうなるのは聖人の徳が国中を潤しているからであり、それは「無事」の結果でもある。ここにある「自分は無事であるから民は自ずから富むことになる」とは、このようなことなのである。


〈奥義伝開〉「無事」であれば「富」を巡って過度な奪い合いが行われない、ということである。「富」を過度に他人と奪い合わないのが「無事」である。そうなれば共に過不足のない状態になることができる。争っている時よりも豊かになれるのである。それは争いに「富」が消費されないからである。武術を習得したばかりにかえって「無事」で居られなくなる人も居る。あえて闘争を求めようとする人である。これでは意味がない。「富」とは安全性に富むという場合にも当てはめることができよう。勝つことより、争いを回避する。そうした視点において武術は学ばれるべきである。


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