宋常星『太上道徳経講義』(57ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(57ー3)
「奇」をして兵を用い、
兵を用いるのは、本来は朝廷に従わない者を討つ時である。それを用いるのは他に手段のない、やむを得ざる場合に限られていた。例えば二つの国が敵対している時には、どうしても戦うことになる。そうなればいろいろな術策が用いられ、互いが安定した状態にあることはできなくなってしまう。ただ殷から周への「革命」は仁義をして戦が起された。誰であっても自分の行っていることの全てを理解することはできないものである。「奇」とは一般的には兵は用いるべきではないが、それを用いている、と事実を示している語で、それは通常は用いられるべきことではない。そうであるから「『奇』をして兵を用い」とあるのである。「奇」を用いたがる人は多いが道の修行者はけっしてそうであってはならない。こうしたことの戒めとしてここで「奇」という語が使われている。
〈奥義伝開〉「正」による国の統治は「王道」によるものといえよう。一方、兵を用いるのは「覇道」とすることができる。軍事独裁国家などは覇道の国である。しかし、そうした国でもある程度は、民の自由が認められているので、「正」の部分が全く無いということではない。どのような国にあっても国家権力が人々を抑圧する場面はあるわけで、その意味においては「兵(警察なども含まれる)」を用いない国はないわけである。そうした現状において「兵」によって「抹殺」されないためには、どうしたら良いのか。それを老子は考えるわけである。形而下において「兵」を完全に超克することはできないが、形而上においては可能であることを老子は見出した。本来、「兵」という暴力装置を用いることはいかなる場合でも天の理からすれば正当化できないのであるから、そうした「力」からは逃げるより他にない。ただ逃げるか。それができなければ抵抗をして活路を見出すより他にない。そのどちらかである。こうした時にはやはり武術の心得が必要である。