宋常星『太上道徳経講義』(56ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(56ー9)

つまりは天下のあらゆる存在は「貴(き)」なのである。

ここで述べられているのは、この章の全体の総括である。「親疎」「利害」「貴賎」の全てがここにあると同時に全てがここには無い。それは天下の「至貴」であり、これ以上のものはない。その「貴」いことは無上であり、それに名を付することはできない程である。比べるものもなく、意図してそれを得ることもできない。このように「貴」いものであるから人はそれを見ることはできない。比類のない「貴」さなのである。これをそれとして知る人もなく世俗のどこにあっても聞くことも、見ることもない。これを強いて名付ければ「天下の貴」ということになる。「道」を修する者は、この「至貴」の理を知っているであろうか。この「徳」を修しているであろうか。この「徳」は天下と等しく、天下の造化と同じく変化をしている。それはまた「玄同」であることは言うまでもあるまい。


〈奥義伝開〉「貴」を「とうとい」と解したのでは親疎、利害、貴賤のない「玄同」と意味が合わなくなる。「貴」は「両手で物を持って贈っている」様子を示すものであるとされている。両手でとあるのは相手を貴んでいるからで、そこから「とうとい」という読み方が出て来た。ここで老子の言っている「貴」は後の儒学で重視される「敬(つつしみ)」と同じである。「相手を尊敬して譲り合う」関係が示されている。「親」も「疎」も互いが尊敬して譲り会うことができれば、それは根本において等しいものであることになる。これが「玄同」である。「貴賤」にしてもそれは社会における一面の状況に過ぎないのであり、人としての本質は平等であるから互いに「敬」の気持ちを持って接すればあらゆる人が人として等しいものとして認識される。そうしたことを「玄同」から導き出されるものとして「貴=敬」が示されているのである。


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