宋常星『太上道徳経講義』(56ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(56ー3)

余計なことを語ろうとする者は、本当のところを分かってはいない。

世間で道を語る人の多くは、本当は道を悟っていない人である。そうであるから多く語ろうとする。そして語れば語る程、道の本質が見えなくなってしまう。それは道が形がなく、例えることもできないものであるからである。そうであるから言語をして道を形容しようとしても、決してその本質を言うことはできない。それをあえて語れば間違ったところにそれてしまう。または枝道に入ってしまう。それは真の意味で道が分かっていないからである。そうであるから「余計なことを語ろうとする者は、本当のところを分かってはいない」とされている。


〈奥義伝開〉物事の本質は簡単であり、分かりやすいものであるとされる。儒教でも「簡易」が本質をいう場合に用いられる。それは水が上から下に流れるのと同じで多くの人の経験則と一致するように感じられるからである。ただ何が「余計なこと」であるのかの判断は難しい。ここで述べられているのは「自分が疑問に思ったことは疑って良い」である。権威や専門性をして説かれていることでも「疑問」があれば、それを疑うことはけっして誤りではない。それは後に権威とされた考え方が否定されることは多くあったことをしても明らかであろう。「素朴な疑問」の重要性を老子は説いている。


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