宋常星『太上道徳経講義』(40ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(40ー3)

「弱」は道の「用」である。

この章で述べられている大いなる道の「動」については、その「機」が「動」くのは時を違うことがないのであり、あらゆるところを選ぶこともない。それは万物の「情」に順ずるものでもあり、物のあり方(用)そのままでもある。万物の本来的なあり方である「性」そのままなのであり、それはあらゆるところに及んでいる。そうしたことを「弱」と謂っている。つまり、その「用」は水の中にも、火の中にも入り込んでいるし、金石の中にも何らの支障もなく入り込んでいる。それは万物そのものであるし、そうでない物はない。当然のことに「剛」のみが「用」というわけではなく「柔」も「用」としての働きをなす。これが「易」でいう「群龍、首なきを見る。吉」なのである。そうであるから「『弱』は道の『用』である」とされている。つまり春や夏は温かく、万物が生まれ、秋や冬は寒く、万物がその活動を止める。その温かなのは「柔」であるが寒いのは「剛」ではない、とするなら、それは天地の理でないばかりでもなくなってしまう。こうした剛柔の変化は「柔」の(柔は剛へと変化するものとしての)「弱」における「用(変化)」なのである。人が生きて行く上で、(相手が強く出てきても)言葉は柔らかく、よく相手の言う事を聞く。何事にも寛容であれば、間違いはなく完璧であることができる。これも(剛に対するに柔をもってすることで剛を働かなくさせる)「弱」の「用」なのである。「弱」といってもそこに何事もなく、何物も生じていないのではないのである。


〈奥義伝開〉宋常星は文中に易の「群龍、首なきを見る。吉」を引いている。ここでの「群龍」は「剛」であり、それは陰陽や上下など変化するものを示している。そして「首」は「体」や「静」であって、それは、この世の働きとして我々が直接に見ることのできない世界にある。そこで、そうした根源をも視野に入れることができれば、認識として間違いのないもの、つまり「吉」といえる状態が得られるわけである。つまりこの世においては弱や柔、つまり謙譲(敬つつしみ)が重要であるということである。しかし、こうしたことの根源には「強」があるわけで、ただ相手に盲従するわけではない。


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