宋常星『太上道徳経講義』(40ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(40ー2)
「反」は道の「動」である。
大いなる道の奥深さは「動」や「静」の変化の「機」にある。つまり「動」の「機」は「動」から生まれるのではないのであり「動」が起こる「機」が熟して生まれる(「静」が熟して「動」となる)。それは「静」の「反」対である「静」よるのである。「静」が極まれば「動」の「機」が生まれるわけである。そうであるから「『反』は道の『動』である」とされている。天地の道は一定していて繰り返すものではない。つまり陰陽が消長し交代するようなものではないのである。例えば十月からは純陰(純坤)へと転ずるとされる。そして冬至になって一陽が生まれ、四月になればまた純陽(純乾)へと転ずる。そして夏至になれば一陰が生まれる。これは天地の造化の理であり、ここに陰陽の繰り返しを見ることができる(これは天地の道の「動」の変化として生じている)。また人の感情や欲望においても、喜怒哀楽の繰り返しを見ることができるであろう。このように静が転じることがなければ動も生まれないことになる。心であればこの動は妄想(感情の乱れ)と事実ということになろう。もし、こうした感情の妄想と事実の繰り返しを脱して真の「静」を得たならば、それは知恵の内省の力(静の力)を開くことなのであるが、それをして完全に妄想から脱することができるであろう。感情にとらわれることなく本来の心のあり方(性)に戻ることができるのであり、全く妄想が生まれることはなくなる。一度、内省の悟り(「静」への悟り)を得れば、「動の中に動が生まれる」ような繰り返しを断つことができる。そうでなければ自らの「性」の本来的なあり方を乱し、不適切な行為から、また不適切な行為を生み出すこととなり、自分の持っている本来の「徳」を損じることになる。修行を長くしていると、自分の「性」は自然に深い沢に映る月のように静かになり、我が心は自然に波のない水面のように静かになる。こうしたレベルでは、天地の間にある「動」の繰り返しは認められない。つまりそうしたものが働くことがないわけである(交互に変化する動静の静ではなく天地の道の根源と等しい「静」を得る)。道を学ぶ者はこうしたところをよく理解しておかなければならない。
〈奥義伝開〉ここで宋常星は第十六章にある「物は芸芸(ウンウン)、各(おのおの)その根に帰す。根に帰するを静という」ところから解釈をしている。「芸芸」はさかんに活動する様子で、これが「動」である。そしてその根源には「静」があるとしているわけである。この章ではここで「動」について述べているが、次には「用」について触れられている。それらの根源(根)となるのが「静」であり「体」である。老子はここでは「動」のレベルのみを説いているが、宋常星はその根源である「静」へも言及する。「動」のレベルの動静、陰陽などと、その根源にある「静」と二つの軸が語られているので注意を要する。