宋常星『太上道徳経講義』(38ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(38ー3)
偽りの德(下德)はそれが為されると「德」が行われているように見えるものであるが、そこには真の德は存していない。
偽りの德は、それで充分で完全なる德ということはできない。自然、無為でもない。自分勝手な考えで、良いと思うことをやっているようなものである。それは、ただただ他人にどう見えるかだけを気にしての行動に終始してしまっている。これをやれば評価されるか、を考えるだけなのである。そうであるから評価を受けないようなことをすることはない。ただ、こうした他人の評価に関係なく德を実践することが、本当の德の行いなのである。こうしたことが分からなければ、徳の及ぶ範囲は広がることなく、限定的なものとなってしまう。人には必ず損得がある。徳が実践できる時もあるし、そうでない時もある。利得を求めようとする人は自分が徳のある人であろうとする。もし、そう評価されなければ、自分には徳がないと嘆くであろう。そうであるから「偽りの德(下德)はそれが為されると『德』が行われているように見えるものであるが、そこには真の德は存していない」とされているのである。本当に徳とは、心の理そのままであろう。そしてこの理は大いなる道によっているのであり、それを受けた心の本質である「性」に発している自然の天理なのである。人々は本来的にそれを有しており、その徳は完全なるものである。もし、これをよく使うことができたならば、天地の万物は、この徳の及ばないところはない。しかし、世の人の私欲は甚だしいものがある。そこには天の理は通ることなく、天の徳も働かなくなっていて、存しないのと同じになっている。もし徳が自然であり無為を好しとするならば、それは恵みを与えようとしなくても自然に恵みが与えられ、仁を行おうとしなくても自然に行われているようなものである。それは春の雨が万物に及んで、その成長を育むのと同じである。しかし万物はこの雨が成長の恵みを与えてくれているとは思わない。何かを得たとも失ったとも思わないのである。道を学ぼうとする人は、こうした徳が、本当の徳であることをよく理解しておかなければならない。
〈奥義伝開〉老子の提示する道、徳、仁、義、礼でいうなら儒教の重視するのは礼であり、老子は道であるとすることができるであろう。ここで老子は儒教そのものを批判しているのではなく、礼が本来的には仁から徳、道に通じるものであることを忘れた「儒教」を批判しているわけである。老子は道に、太古の昔の気風に返れば良いと言うが、それは「淵」でイメージされるような精神の深層を体験することで可能とする。また道を理解できない人の居ることも認めている。そうした「現代社会」においてやはり何らかの「礼」を考えることは無意味とは言えない。