宋常星『太上道徳経講義』(38ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(38ー1)

いまだ天や人が無かった先は、至誠、無妄の状態であった。これを「道」と言う。こうした天より受けた存在のあり方そのままであるのが「性」である。「性」が働くと「德」となり、それは至公、無私である。こうした人が生きることの「理」は常に個々人の身に存しているが、それは「仁」ともされる。分別があり、決断がなされ、常に行うべきを行うのが「義」である。天の秩序の段階、人の行うべき方法、これには外面と内面があるが、こうしたことに恭しく従うのが「礼」である。この五つは国を治め、家を整える上での普遍的な道徳とされるものであり、身を修め、社会で働くための第一歩でもある。これを実践すれば問題はなかろう。これを行わなければ好ましくない事態が生まれよう。もし「道」が天下に行われなかったならば、そこに善悪は明らかでなく、民は正しい政治の恩恵を受けることもない。これは全て世に「道」が衰えたからである。人々の心は太古の人のように純朴ではなく、世の中は乱れてしまっている。聖人はそうした世にあってもなんとか「道」が見失われないように、あらゆる場面で力を尽くして、太古の風潮を復活させようとする。そうであるから「道」の実践を重視して、その行われないところがないようにするわけである。真の「道」を実践して、見せかけの「道」に依ることがなく、適切なバランスを得て大いなる道とひとつになるわけである。この章で老子は「重視すべきところ」について教えているが、それは太古の純朴さの境地のことなのである。


〈奥義伝開〉老子はここで人の行動は道理によるべきであり、占いや託宣といった迷信に盲従すべきではないことを述べている。人の行動は本来は内的な必然の発露としての「善」なる心の働きによっているのであるが、それが分からなくなった社会においては仁や義、礼によることも仕方のないこととする。この中で「礼」は具体的な行動を示すものであるが、老子はこれが「道」による正しい礼であるなら強制しても構わないとする。逆に言えばそうした「礼」を我々は知ることができないのであるから、いくら正しい行為と思っても他人に強制することは、あってはならないということである。


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