宋常星『太上道徳経講義』(37ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(37ー3)

もし政治を司る者(侯王)が、道をよく守ることができたならば、万物は自然にあるべき状態で生成をすることであろう。

「侯王」とは人々のリーダーであり、あらゆる物事を有効に用いようとする。もし「侯王」が清浄、無為であり、私欲を持つことなく、その心に乱れがなかったならば、あらゆる物事に乱れが生じることはない。自ら無為を守っていれば、物それ自体が持つ生成の働きがそのままに働くからである。自然の生成が滞りなく働くわけである。そうなれば万物はあるべき生成を遂げることができる。それぞれがあるべき生成を行い、それぞれのあるべき働きを為すわけである。災いの生じることなく、不幸も乱れもない。山や川の鬼神は安らかにしており、鳥や獣、魚もあるべき生を送っている。こうしたことはあらゆる物がそれ自体有している働きそのままて居るからである。おおよそにおいて世の人は有為の境地に心を馳せるものである。知恵を有為の世界に用いて、日々企みをする。そこには全く清静なる時はない。日々に思いを巡らせて、一時も休むことができなず、人が本来的に持っている純粋な心(天真)は覆い隠されてしまって、無為なる真常の大いなる道は、全く修されることはなくなってしまう。性(本来的な心の働き)や命(本来的な体の働き)は顧みられることなく、不都合なことが生じて災いを招くことになる。不幸から離れることができず、自分の身も家も保つことができない。こうしたことは無為を守らないことで生じることである。


〈奥義伝開〉老子は「無為」を実践できる人が「侯王」となるべきであると考えている。そうなれば理想の社会が実現されるとするのである。政治システムにおいて最も効率的なのは独裁である。これが完璧に行われれば理想的な社会ということになるが、これまでそうしたことが実現したことはない。そもそも「侯王」の居る「社会」は有為によって作られているわけで、それを統括するリーダーや構成する民が「無為」となることはあり得ない。こうした志向には矛盾がある。「侯王」と民が共に無為を実践したら社会は崩壊してしまうことであろう。


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