宋常星『太上道徳経講義』(36ー9)
宋常星『太上道徳経講義』(36ー9)
国家において有益なもの(利器)は、人に見せるべきではない。
この一節もまた道が人において存することの例えであり、やたらに前に出るべきではないことを述べている。もし、むやみに前に出たならば、それは国家において有益なものを人に見せるようなものとなる。ここでの「有益なもの」とは「基本的な社会のマナー」によって、それをわきまえない者を排することであったり、「法律」によって不適切な事を規制することである。「有益なもの」は、魚にあっては「淵」のようなもので、魚は「淵」にあれば、その姿を表すことはない。「有益なるもの」も国家にあっては、顕となることはないのである。もし軽々にこれが示されるようなことがあれば、これは「前に出る」ことと言わなければならないのであり、「微明」からは外れてしまう。君主の権力が民を規制するものとなるのである。そうであるから「国家において有益なものは、人に見せるべきではない」とされている。もしこうしたことがよく理解されたならば、「有益なもの」は表に出ることはなかろう。もし、魚が「淵」に居て姿を表さなければ、柔や弱あって優位に立つことができるであろう。奥深く「微明」を悟ったならば、奪っても与えることができるし、衰退しても興隆できるし、弱さを強さに変えることも可能で、収斂をして拡張することもで出来るようになる。そうであるから道から外れることなどあるべきではないのである。
〈奥義伝開〉この第三の格言も「奥の手」は軽々に示すべきではないとする普通の格言として読むことができる。これを「微明」の観点から考えると、「有益なもの」は同時に「無益なもの」でもあると理解されよう。そうなると「見せるべきではない」というのも、下らない恥ずかしいものであるから見せてはいけないということになる。あらゆることに有効な「利器」などはないからである。逆に世阿弥は「秘すれば花」として見せないことで、人々に「利器」であると思い込ませることができることを教えていた。こうした相手の誤解や幻想を誘う手法は現代でも、よく用いられている。重要なことは普遍的な価値を持つ「利器」などはないことをよく理解することであろう。