宋常星『太上道徳経講義』(36ー8)
宋常星『太上道徳経講義』(36ー8)
魚は淵を離れることはできない。
この一節は、人が道を離れることのできないことを例えているのであり、それは魚が淵から離れることができないのと同様であるとする。魚は水に暮らすものであるから、それがなければ生きて行けない。もし淵から出てしまったなら死んでしまうことであろう。人は道にあって生きている。もし道を離れてしまえば、どうして人として生きていくことができるであろうか。魚は淵さえ離れなければ、何らの問題もない。人も道から離れることがなければ何らの問題の生ずることもないのである。明らかなることは知ることができる。間違いを起こせば罪を問われる。これは何かが起こって患いが生じているのであるが、こうした「理」つまり大いなる道から逃れることのできないのである。
〈奥義伝開〉格言の二番目である。これは「自分の力量を越えたことをしてしまうと自滅してしまう」という意味であるが、今日でもこうした言い方で注意を促されることはある。ただこの格言が「微明」とどのように関係するのかは、必ずしも明確ではない。あえて解釈をするなら離れることのできない「淵」は、離れることのできる「淵」でもある、というようになろうか。社会や国家や人など、それを離れては、それ無しでは生きて行けないと思っているようなものでも、実際は無くても生きて行ける、という教えとして解釈するのが妥当なのであろう。宋常星のように「淵」が「大いなる道」であるとするよりも、「大いなる道」それさえも人は意識すること無く生きて行ける、とした方がより思想としてのダイナミズムを持つように思われる。