宋常星『太上道徳経講義』(27ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(27ー3)
「善」なる言葉には欠けているところ(瑕)やよろしく無いところ(謫)は無い。
言葉について語る時、そこには「本(もと)」があるのであり、それは「善」なる言葉である。「瑕(か)」とは傷のことである。「謫」とはまちがいのことである。言ったことを顧みることがなければ、反省するベースも有されていないことになり、場合によっては「徳」を乱すことにもなってしまう。また不適切な行為をなすことにもなる。こうしたところには欠けているところ(瑕)やよろしく無いところ(謫)があるわけである。しかし聖人は非道な言葉を述べることはない。理のないことを語ることもない。言葉を軽く発することもなく、言えば必ず適切な言い方となる。それは天下の優れた規範であり、国家の手本でもある。聖人の言葉は簡単で難しくはないので、その言うところは明らかである。よけいな言葉の加えられることもなく、よく理を尽くしている。どのようなことが語られても、怨まれることも、悪まれることもない。そうした言葉は「善なる言語」というのが適当ではなかろうか。ここにある「『善』なる言葉には欠けているところ(瑕)やよろしく無いところ(謫)は無い」とあるのは、以上に述べたような意味なのである。
〈奥義伝開〉ここでは「善」の実行が誤りのないものとなることが示されている。これも無為自然のひとつの形である。ここで老子は始めには「行動」を例にして、ここでは「言葉」を例にしているが、それは単なる例えで「行動」や「言葉」に限定されるものではない。ここでは言ったことが間違いのないものとなる、とするが、これはあらゆる行為にも共通している。