宋常星『太上道徳経講義』(27ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(27ー2)
「善」なる行いがなされても、そのは痕跡を見ることは無い。
どのような車であっても車が通れば轍(わだち)の跡が残るものである。人が歩いて行っても足跡は残る。それは自分の過去が消せないのと同じである。人の行いは、意識をして為されるが、それは意識の世界だけに留まることはなく、なんらかの物による影響を免れざるを得ないものでもあるから、その行為の跡も消えることはなくなる。そして消えることがないのは善なる行いではないからに他ならない。そしてこうした行いは人や物を救うことはない。しかし聖人の行いは、車の轍の跡に比することのできないものである。あらゆるものと渾然一体となって我も彼も忘れてしまう。垣根を設けることなく、他人と自分を分け隔てることもない。行うべき事を行うべき時に行う。こうしたことが家や国において行われると、家でも国でもその行為の「跡」を見ることはできない。それを天下に行ったとしても、誰もそれが為されたことを知ることはない。「善」なる行為はそれが行われる範囲は山や海に限られることなく、鬼神もそれを知ることはできない。その始まりを見ることはできず、その終わりを知ることもかなわない。それが「『善』なる行いがなされても、そのは痕跡を見ることは無い」ということである。
〈奥義伝開〉以下、五つにわたって「善」なる行為の特徴が述べられている。ここでは「善」なる行為は、自然そのままなのであるので、他人から特にその存在が意識されることもないとが教られている。つまり「善」なる行為は無為自然において為されているのである。そうであるから例え「善」なる行為がなされたとしても、それは全く過不足なく自然の流れ、働きそのままであるので、そこに「善」がなされたとは気づかれないわけである。中国では「無敗神話」を持つ武術が「二流」とされるのも、武術の最高の境地が無為自然であって、不自然な争いを起こさないところにあると考えるからである。争いを生まなければ絶対に敗れることはない。こうした考え方は第五番目にも説かれている。