宋常星『太上道徳経講義』(26ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(26ー2)
「重」は「軽」の根である。
軽挙することなく、盲動することがないのを「重」とする。そうであるから軽挙盲動は「軽」となる。かつてよく天下を治め得た者は、法を軽くは扱わなかった。よく考えないで事を行うことはなかった。もし軽い気持ちで法を行えばそれは守られなくなるし、よく考えないで行動をすれば、それは必ず悪い結果を招くことになる。そうであるから自「重」しなければならないのであり、そうなれば世の中全体にあっても軽挙は戒められ、盲動は為されなくなる。「軽」を捨てて「重」を取る。たとえ「軽」にあってもそれは自然に「重」へと至ることになる。そうであるから「『重』は『軽』の根である」とされている。
〈奥義伝開〉老子は「重」である自重は、思いのままの行動である「軽」の「根」にあるものとする。つまり、欲望のままの行為である「軽」は、その根元にある「重」を含んでいるわけである。そして、人の根源的な欲望として「重」があるとする。つまり「重」は人が学んで得るべきものではなく、誰もが「重」を持っていることを自覚することが重要なのである。それには次に触れられる「静」を得る必要がある。もちろん「静」も誰もが生まれながらに有しているものであることは言うまでもなかろう。