宋常星『太上道徳経講義』(25ー6)
宋常星『太上道徳経講義』(25ー6)
人は地を法とし、地は天を法とする。天は道を法とし、道は自然を法とする。
地の徳は「安静」にある。安静にして(むやみにいじることなく)種を植えておけば五穀は実る。地を掘れば良い水を得ることができる。地はどのように使われても、それを怨むことはない。そして良いものを惜しみなくもたらしてくれる。あらゆる物を乗せて、あらゆる生き物を育てている。そしてそれは安静を基本としている。もし、よく安静の徳を得ることができれば、心に妄念を抱くことなく、身は妄動することなく、意は妄思することもない。事は妄りに為されることなく、真静の本体が得られるであろう。そうであるから聖なる王は無為、無欲の道を修しているのであり、それによって教化されない民はいない。治まらない国はない。これは諸事において地の道である安静によっているからである。それが「人は地を法とし」である。天の徳は「軽清」であり、天は高かく明らかで、活発で勢いがあり、とらわれのない静けさを持って極まるところがない。そうであるから三光(日、月、星)は常に輝き、四時(四季)は順調に巡っている。これは地が天の徳を法としているからである。天地は共に関係をし、陰陽は互いに交わっている。そうであるから万物は形を成すことができている。まさに万物の性質は、全てが天の変化によっているのであり、全ての地に生えているものは天の徳によって生育している。そうであるから「地は天を法とする」とある。道は形を持たないし、名を有することもない。音もないし、臭いもない。至虚で至妙である。天、地、人、物すべてが、道から生まれている。すべてが道によって成り立っている。そうであるから「天は道を法とし」とある。もし天が道を法とすることがなければ、陰陽は昇降の運動をすることもないし、造化も陰陽が観応して為されることがない。つまり三才(天、人、地)を巡り、運動、変化をすることが万物の根本を為しているのである、また万物の命でもある。万物は終われば、また始まる。これはすべて天が道を法としているからである。そうであるので「天は道を法とし」とあるわけである。自然であるとは、特に意図的に運動をすることもなく、特に意図して何かをする必要もない。ひとつも加えるべきものがない、ひとつも削るべきところがない。道は男女を生むので、男女には人としての倫理が自然に備わっている。道は万物を生むので、万物には集まったり、分かれたりすることが自然にできるようになっている。道は五行を生むので、五行には正邪を自然に改める働きがある。月は自然に明るいし、日も自然に輝いている。そうであるから「道は自然を法とする」とされている。この章では「大道は自然である」ということを明らかにしている。もし、音楽や異性の楽しみを忘れ、空を体したならば、名誉や地位を離れて、安楽や贅沢も気にせず、根源的な自己のあり方を完成して、あらゆるとらわれから離脱することができる。それは自然の働きそのものであり、道と完全に合一している。つまり道とは本来の自己そのものなのである。
〈奥義伝開〉最後は「人、地、天」は、それぞれが関係していて、全てが「自然」によっていることが述べられている。先には「王、地、天」が「道」によっていることが述べられていた。つまり「自然=道」であり、それは天、地、人(王をも含む)によって構成されているわけである。王も人も等しく「自然=道」の範疇にあるのであるから何ら違いはない。あらゆるものが平等で等しくその生存を保証され生成をしているのが自然の姿なのであり、それを円滑に促すのが「自然の理」としての「道」なのである。