宋常星『太上道徳経講義』(23ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(23ー1)
道が天地を生んでいるので、道は天地の本である。天地は万物を生んでいるので、天地はまた万物の本でもある。人は天地の間に存している。その身は天地によっている。性は太極により、万物とその徳を「一」にしている。つまり道と「一」なのである。そうであるから聖人は道と大いなる同化にあり、自分と道とを同一化している。それは人においても同様で、大いなる同化の徳は人も等しく有している。それはただ天に順じることであり、あらゆる存在に対して親疎を持つことはない。遠近もない。それが道というものである。道はあらゆるところに行われ、古今を通じて働いている。それは徳でもある。徳は過不足なく働き、思いもよらないところまで及んでいる。万民は道と「一」であり、天下に道はだた「一」つしかない。万民は徳と「一」であり。天下に徳はただ「一」つしかない。ここではこうした自然の妙を言わんとしている。それは民が好んで得ようとするものであることは間違いない。
この章では自然ということが重視されている。昔の聖人は自然の道を語って天下にそれが行われていることを信じていた。そうであるから天下の民は道を得ることができれば楽しいので道によってものを得ていた。また道によってものを失っても楽しいので失うことを厭うことはなかった。こうしたことは全て優れた聖人に見られたことであり、それは天下に道が行われていたことを信じるに足らしめることでもある。つまりこれらは自然によって得ることを楽しんでいるということであり、すべては自然に帰するということなのである。
〈奥義伝開〉ここでは「自然」とは何か、が説かれている。老子は「自然」とは「道(合理的思考)」であり、「徳(合理的思考の実践)」であり「失(社会からの離脱)」であるとする。その根底にあるのは「自由」である。老子は「樸」や「嬰児」のような生まれたままで手の掛かってない状態が生きる上で最もあるべき姿であると考えていた。そしてそれを阻害するのが社会であり集団であるとした。もし本当の自由を手にしたいならば社会や集団から離脱しなければならない。しかしたとえ山の中に籠もっても人は完全に社会から離脱することはできない。老子は基本的には内的な離脱をすれば、当面はそれで良いと考えていた。