宋常星『太上道徳経講義』(22ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(22ー5)

古く「不完全であることは完全である」と言われているのは、どうして嘘と言えようか。(これまで述べてきたことからすれば)誠に完全であるということになろう。


この章句は一章の総括である。初めには「不完全であることは完全である」とあり、これは古くから伝えられている聖なる語である。天下の人ではたしてこの意味を知る人が居るであろうか。天下、国家は完全であることを求めなくても完全である。君臣、父子にあっても完全であることを求めなくても完全である。それはそれぞれに「一」を抱いているからに他ならない。一般に「不完全」と見えることも、つまりは「完全」であるということである。天下の人は、「不完全」でなければ完全である、と思っているが、それはいまだ「至誠の理」を得ていないからである。もし、この「至誠の理」を「不完全」であるものに用いれば、天下の理でこの「至誠の理」に服さないものはないのであるから、「古く『不完全であることは完全である』と言われているのは、どうして嘘と言えようか。誠に完全であるということになろう」ということになる。人ははたしてよく自分は「不完全」であると思って他人に従うであろうか。その曲がっているのを受け入れることができるであろうか。窪みに陥ることを良しとするであろうか。自分で判断しなければ迷うことはないし、古いものは新しくはない。自分で見ることなく、決めつけることなく、行うことなく、維持しようとしなければ、そこには「不完全」であるものは損しない。こうした深い教えを得ることができるであろう。そしてそうなればどうして「一」を抱くことがないのを天下の方式となすようなことができようか。


〈奥義伝開〉太古の神話に出て来る女媧はコンパスと定規を持っている。これは文明の始まりを象徴するもので、人が合理的思考によって道具を生み出した事実を示している。こうした太古の知恵のひとつに「不完全であることは完全である」があったのであるが、その本当の意味は忘れらていた。これは「道」でも同様である。老子は第一章で「道」は「タオ」といったような不可思議なものではないことに警鐘を鳴らしている。


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