宋常星『太上道徳経講義』(22ー3)
そうであるから聖人は「一」を抱くことを、天下の方式とするわけである。
ここの一文では、これまでを総括している。前半は「抱一の道」を説いており、要するに聖人の有する「理」とは抱かれた「一」であり、ただ「一」を抱くことを天下の方式(天下に通ずる基本原理)としている。よく「一」の「理」を考えてみるに天下のあらゆる存在、出来事にはそれぞれの「理」があるのであり、異なる存在、出来事で同じ「理」によるものはない。一方で「理」があるということでは「一」であり、共通していると考えることもできある。これらはあらゆる存在、出来事においていうことのできるものである。例えば「仁」は「愛」から生まれているが、ここにおいては「愛」が「一」つの「理」ということになる。「義」は「別(人それぞれが個々人として認められるところに、その間に義が生まれる)」から生まれているが、ここでは「別」であることが「一」つの「理」といえる。「礼」は「敬:に依っているが、ここでも「敬」は「一」つの「理」である。「智」識は「知」ることに依っているが、ここでも「知」ることが「智」識の「一」つの「理」となっている。「信」じることは「実(まこと)」であることに依っているが、ここでも「実」は「一」の「理」である。こうした「理」は人の心に存していて、生まれながらに有しているのであるが、自分で合理性そのものを変更することはできない。そうであるから自分勝手な解釈で「合理的思考」が行われる、つまり非合理的な考え方になってしまうと、「不完全」であるものは「不完全」であり、「完全」なものは「完全」であるにすぎなくなってしまう。曲がっているものは曲がっているもの、真っ直ぐなものは真っ直ぐなものとなる。窪んでいるところを満たすこともできないし、古いものを新しくすることもできない。自分の思うところが少なくなければ、得なければならないと思うものも少なくならない。多く学ばなければ迷うことも少なくならない。これらは全て「抱一の道」を得ていないからそうなるのである。聖人は「抱一」を天下の方式としている。抱くのはただ「一」であるが、その応用は無限である。つまり天下に通用するような人は、教えなくても自ずから「一」を抱いているのであり、およそこの世に存在しているもので「一」を抱いていないものなどない。そうであるから聖人は「一」を抱くことをして天下の方式としているとあるわけである。
〈奥義伝開〉聖人は「合理的思考」つまり「一」を得ていて、それをして天下のあらゆる事を認識する。これが全ての基本であるから「一」とされる。こうした合理的な思考を使うことで「そうなっている」「当たり前である」等といった先入観、固定観念から脱することができる。