宋常星『太上道徳経講義』(22ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(22ー1)

大道が生まれるのは、「一」においてである。暦が始まるのも「一」においてである。「一」は万物の本始であり、万理を統べる根本(統宗)でもある。この「一」は「無極」といわれることもあるが、それは声も無く、臭いも無く、形も無いところの「一」であるからである。また「一」は「太極」ともいわれることがある。それは物事の「体(基本)」と「用(応用)」を共に含んだ根本の「一」であるからである。もし、こうした「一」を得ることがなければ、造化の働きは生まれず万物が生ずることもない。そうであるから天地・万物は、それぞれが共に交わって、形やその認識(象)が生み出されているのである。もし、こうした「一」を得ていなければ、それぞれにおいて無極の理も得ることはないし、太極の性をも備えていることはない。そうであるから聖人は心に「一」を得て、天の理と渾然一体となっている。あらゆることに「一」は存しているのであり、そうであるからそれぞれに働き(用)を持つことができている。それはまったくの例外もなく、その根本において備えられている。君臣、父子においても、三綱(君臣、父子、夫婦の間の道)五情(喜、怒、哀。楽、欲の感情)にあっても、「一」を含まないものはないのであり、「一」があるからこそこうした関係性が適切に保たれているのである。天や地のあり方、古今にわたる人や物において「一」を有していないものなどはないのであり、「一」がなくして個々の働きを有することもない。この章ではこのような「一」について述べられている。こうした理を知っている賢者にあっても、はたしてよく「元」を抱えて「一」を守っている人が居るであろうか。心に深く太極の理を得ている人が居るであろうか。

身体の「一」は、まったく造化の「一」と同じである。「一」を知ることは全てを理解することであり、これ以上の悟りはない。よく「一」をして自らを修めれば、必ず修養は成るものである。ここで述べられる「一」を抱くということは、あらゆることに通じる天下の方式で、よく「一」を得ることができれば、あらゆるものは「誠」に帰することになる。


〈奥義伝開〉老子の言う「一」とは「合理的な思考」またはそれによって得られた「新たな認識」のことである。老子は万物を貫くものがあると考える。それが「道=道理」であり、それとはつまりは合理的な思考であると教える。そしてそれは老子の頃に古い時代の知恵として伝えられていた「不完全(曲)であることには完全(全)であることへの可能性がある」とする中にも認めることが可能とする。つまりそれは単なる逆説的な言い方をしているのではなく、そこには「合理的思考」を見て取ることができるとするわけである。現在でも老子の説いた「道」は「タオ」などと称されて、何か不可思議なことを言っているかのように思われているが、そうではないわけである。


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