宋常星『太上道徳経講義』(21ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(21ー5)

私がどうして「衆甫」がそうであると知っているのかは、以上に述べたことに依る。

「衆甫」の秘密の意味とは全く「真の真精(根源のエネルギー)」ということである。それは全く「真の真信(根源の秩序)」でもある。出る機、入る機の間において、始めは出る機が働き、それが変化して物となり、またついには入る機となって、道に帰することになる(個々の道の現れとしての物は生まれ滅ぶが、その物に付けられた「名」が永遠に受け継がれる)。仮に道をして道を観るとすれば「衆甫」の理が分かろう。これは物を通して道を観ることでもある。こうして根源に達してその「元」を窮める。つまりこれが「衆甫」の玄理なのであり、始めに道を得れば「衆甫」がどのようなものかが分かるであろう。そうであるから「私はどうして『衆甫』がそうであると知っているのかは、以上に述べたことに依る」とあるのである。そうであるから善く道を観る者のは、必ず物をしてこれを観るのである。善く物を観るとは、必ず道をしてこれを観るのであり、道を離れて物を観るのではない。物を離れて物を観るのではない。物を観るとは、物の入る機(生まれる機)を観るのである。道を観るとは、道の出る機(滅する機)を観るのである。人は結局のところ「杳」「冥」「恍」「惚」を観て、「衆甫」のそうである道理を知ることができるのであろうか。そこにはシンボル(象)があり、物がある。精があり、信がある。深遠な徳(孔徳)の容(かたち)は全て「一」をしてこれが貫かれている。


〈奥義伝開〉あらゆるものごとの始まり(衆甫)は人がそれを認識することに依る。人が認識しなければ物としてコップがあったとしても、それがコップとして使われることはない。そしてこうした新たな認識を見出すベースとなるのは合理的な考え方(道)である。「徳」のある世の中において人は自由であり、平等でなければならない。しかし、現在は一部の収奪者によって、自由や平等が制限されるのが当然と思い込まされている。老子はそうしたことが「新たな認識」を得ることで徐々に打破できると考えていた。


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