宋常星『太上道徳経講義』(21ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(21ー4)

杳であり冥である、そうした(意識の)中に(物を生み出す)エッセンス(精)がある。そのエッセンス(精)は全く誤りのないもの(真)あって、そこには「信(注 規則性)」が認められる。昔から今に至るまで、その名は伝えられていて、つまりそこに「衆甫(あらゆる)」を閲(み)ることができる。

道が物を生むとは、一つの法則によって一つの物が生み出されるということではない。これは無の中に秘密があるのであるが、このことは「杳」であり「冥」であるともいえる。「無」と「杳」や「冥」は言い方は違っているが、表そうとしていることは同じである。もちろん「無」や「杳」「冥」の字義は全く同じではない。しかしそれで表現しようとしていることは同じととらえるべきであろう。「杳」「冥」の中には道理(理)もエネルギー(気)もある。つまり根源的なもの(元精)があるわけであり、そこには虚霊の思いも及ばないような働きが有されている。ただそうしたものが確固として存在していると考えるべきではないが、それが存在していることは間違いのないことでもある。そうであるので「杳であり冥である、そうした(意識の)中に(物を生み出す)エッセンス(精)がある」とされている。そしてこの「精」からは天や地が生まれる。人を生み物を生む。つまり「元精」とは天、地、人の根本なのである。天地にあってこの「元精」と関係しないものはなく、天地は「元精」から生まれているので悠久であるわけである。人や物もまた「元精」と深く関係している。そうでなければ人や物が生み出されることはない。こうした働きに何かを加えようとしても加えるべきものはない。何かを削ろうとしても削るべきものはない。毀たれることもないし、滅ぼされることもない、まったくの「真」なる存在なのである。そうであるから「そのエッセンス(精)は全く誤りのないもの(真)」とされている。また「元精」は常にあって滅びることがないのみならず、時機を違えることなく、秩序を乱すこともない。確かなものとして存しているのは時間が正しく過ぎて行くのと同じであって、周り巡って滞ることがない。あらゆるものがそうした中に生まれて、何ら変わることがない。そうであるから「そこには『信(注 規則性)』が認められる」とされている。もしこの「信」ということが分かったならば、その悟りはあらゆる所、あらゆる時にかかわりなく、古今を通じて、万物を通じて、君臣、父子などの日常の関係においても、それのあることが「閲る」ことができるであろう。またこの「信」の偉大であるのは、これが天地にあれば、天である、地であると認識できるし、万物にあればこれが何々の物であると認識できる。確かに個々の物の名は一定してはいない。しかし、その物が何であるかは「信」を得れば自ずから分かって来るものである。これは既存の名を否定するというのではなく、それを変えるということでもない。もし聖人がこの世に現れたとしても、その名を消すことはできないであろう。そうしたことを「昔から今に至るまで、その名は伝えられ」としている。こうして名が伝えられるのは、それが物を正しく表しているからでもあろう。よく天地、便物の「衆甫」を見たならば、それは天地、万物と一体であることが分かる。「閲る」とは、詳しく見るのであり、「衆甫」は善を衆(あつ)め美を衆(あつ)めたもので、大道の根本は「衆甫」を仔細に見なければ(閲)、それを知ることはできない。ただ仔細に見るといっても、広くあらゆるものを見なければならないというのではない。あらゆる物は大道から生まれているのであり、そうでないものはない。もし広く見るというのであれば、天地、万物の「衆善美」を広く見るということになろう。「物」の持つ本当の「名」を知ることは、その真実を知ることでもある。こうしたことはよく知っておくべきであろう。


〈奥義伝開〉「新たな認識」を得るもうひとつのプロセスとしては、迷いに迷ってどうしようもなくなる時がある。これは「杳」や「冥」といった暗いという語で表している。こうした煮詰まった状態の中から、ある時に一種の秩序、規則性を見出すことができる。それが「信」である。このように「恍」「惚」や「杳」「冥」の中からあらゆる認識のはじまりが得られるのであり、これを「衆甫」と称している。また言語化された「新たな認識」は「名」を付されることで古今東西、多くの人に共有されることになる。


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